歌舞伎座昼の部の追憶にひたって本を繰る。ミツワ石鹸の広告。

一週間のはじまりなので気合いをいれるべく(いつもすぐ抜けるけど)、ハリきってなおいっそうの早起き。諸々の家事をバタバタと片づけてソソクサと外出、喫茶店でコーヒーを飲んで、本を読む。


昨日の歌舞伎座で、数年ぶりに『陣門・組打』を見てあらためてそのドラマツルギーに深く深く感じ入ってしまったので(2001年9月の吉右衛門の所演が思い出に残る名舞台だった。今回の上演は魁春が好きだった。藤十郎の二役は悪かろうはずはないのにわたしには味わい切れず無念…)、とっくりと考えるべく、今日は武智鉄二『歌舞伎の黎明』(青泉社、昭和30年6月)を持参していた。「組討論」というタイトルの文章のじっくりと噛みしめるように読む。


仁左衛門の『吉田屋』はもう聞いただけでたのしみで仕方がなくて、ただほんわかひたって、それだけで大満足だった……と言うのにやぶさかではないけれども、仁左衛門が伊左衛門の『吉田屋』は我當と秀太郎が二人揃って出て、仁左衛門がまんなかではんなりしているという、松嶋屋で固まったあの感じが大好きなのにッと一抹の不満がないでもなかった。でも秀太郎が女房で愛之助が太鼓持ちだったので、まあよしとしよう。



『吉田屋』というといつも思い出すのが、戸板康二の「菊五郎と梅玉」というタイトルの、昭和21年11月の東京劇場上演に際しての劇評。初出の雑誌「劇場」は水木京太が編集長で編集部員に若き三國一朗がいたという、そんなことも合わさって、なんとはなしにずっと心に残っている。というような次第で、昨日の夜は、チコリ入りホットミルクを飲んでハイドンの弦楽四重奏を流しながら、まず最初に、戸板康二『歌舞伎の周囲』(角川書店、昭和23年11月)を繰ったのだった(「菊五郎と梅玉」は『今日の歌舞伎』にも収録)。


なぜだか、三代目梅玉と六代目菊五郎が敗戦後の東京で『吉田屋』で顔合わせというのが、妙に心に残るものがあるのだった。……などと、ひとりしみじみしつつ、ふと思い出して、次は戸板康二『折口信夫坐談』(中央公論社・昭和47年8月→中公文庫・昭和53年9月)を取り出す。ここで、「菊五郎と梅玉」の東京劇場所演に際しての折口信夫の片言隻句を戸板康二が当時書きとめたノートを読むことができるのだ。

○十二月四日、三田の国文科研究会。今日は十一月の東劇の演目について。
・「吉田屋」の喜左衛門は、戸板君の意見と逆になるが、私は立敵のような人がいいと思う。大阪では、荒五郎という人が、なかなかよかった。女房が夕霧の話をするのを、ちょっと制めるところがあった。仲をせくというほどでなくても、そんな気分が、喜左衛門のどこかにあるのだ。それがほんとうだと思う。私は、子供のとき見て、そんな感じがわかった。鴈治郎が伊左衛門だと、梅玉の喜左衛門は、どうしてもいたわるようなところが出たが、あれだけの茶屋の主人なのだから、毅然としたところを持っていたほうがいい。訥子では格も違うが、話にならないね。私は立敵風の役を伊左衛門と対照させたい。
・今度は、格子先の道具がよくない。あれでは、むかしの新宿だ。
・菊五郎の伊左衛門は金持の息子で、子供らしく表現しようとしている。しかし、菊五郎だと、こたつの櫓に乗ったり腰をかけたりする型を見せても、おかしくないのかもしれない。
・夕霧は太夫だから、大きく見せる。いままでの伊左衛門はみな大きな人だったが、太夫のほうが大きく見えるのがほんとうだろう。
・「あはずにいんでは」のところが、今度は一つも印象に残らなかった。
・「ゆかりの月」は、夕霧と伊左衛門の関係の暗示させるところだ。三味線をひくのがばかばかしく見えて、今度は「ゆかりの月」のおもしろさがなくなった。菊五郎では、むしろ、伊左衛門一人のところが、おもしろかったね。
・菊五郎は着付の下のほうが崩れて気になった。こたつのところなど、すわるところが多かったせいかな。私はそんなことを気にしないほうだが、気になった。(そのあと)通というのは、こんなことばかり気にするものだろうね(笑)。
・菊五郎のいちばん解釈の間違いは、大戸をはいるところ、調子に乗ってはいる、あれでは偽偽、つまりかたりの身ぶりで、やつしの身ぶりじゃない。それと、伊左衛門の態度として、若い者を相手にしていないところを出してほしかった。
・花道の出はさびしいが、いかにも、さし出しがありそうな気がした。
・なんといっても、喜左衛門夫婦の芝居がないのが欠点、菊五郎は自信がつよいから一人でやりたいのだ。たいこ持をからませないのもそのためだ。
・「万才傾城」というものは、別になかったのだろう。
・みんなにいっておくが、「吉田屋」のような芝居では、いやらしいところを黙ってみとめる気持が必要です。それを否定したら、歌舞伎のある種のものは滅亡する(あんまりひどいものは別だが)。あなた方も、もう直次郎と三千歳程度の口説場でさえ、いやだろう。しかし、辛抱して見ることだ。歌舞伎は消化できずに捨てければならぬものがあるが、消化しなければだめなものもある。それを辛抱して見ること。(といわれたあとで、苦笑しながら)われわれは病的だから、何でも認容するがね。
・「身替坐禅」の菊五郎はいいから、伊左衛門がどんなにいいかと思ったら、それほどでもなかった。目を意識して使わないのでよくない。もっと目を使ったら、いきいきしたことだろう。
・しかし、「吉田屋」は解説が必要だ。


【戸板康二『折口信夫坐談』より、昭和21年12月4日の折口を囲んだ「芝居合評会」化した「国文学研究会」における折口信夫の片言隻句を書きとめた戸板康二のノート】

そんなこんなで、昨日の夜はひさびさに『折口信夫坐談』にどっぷりとひたることとなった。そして、ひさびさに繰って、

ミツワ会(戸板注:歌舞伎座の二日目に、丸見屋が買切って、土産をつけて切符を売る催し。戦前まであった)というのは、芝居に人がゆくようになるためには、功績がある。むかし歌右衛門の「伊賀局」の頃、私は一人で一枡にいたことがある。それほど、客が来なかった。

と、折口信夫がつぶやいているのを見て、「あっ」となった。


あわてて、次は戸板康二『ロビーの対話』(三月書房、昭和53年2月)を取り出して、「ミツワ文庫」という一文を読む。前々から、戦前の広告史トピックのなかでもとりわけ、ミツワ石鹸の丸見屋にまつわる広告ばなしがお気に入りなのだった。「ミツワ文庫」は、戦前に明治製菓宣伝部で広告に携わった経験のある戸板康二が、戦前の丸見屋のタイアップ広告を語るという一文。




歌舞伎座大正15年6月興行《尾上菊五郎 中村吉右衛門 歌舞伎座の初顔合せ》の筋書きの裏表紙の「ミツワ石鹸」の広告。この筋書は週末に五反田でミツワ石鹸目当てに買ったばかりで(200円)、タイミングがよい。ちなみに演目は、『清正誠忠録』『連獅子』『安政奇聞佃夜嵐』『かっぽれ』。



で、戸板康二の「ミツワ文庫」の記述をツギハギすると、


ミツワ石鹸の丸見屋の広告は、《戦争中までの松竹系の筋書の巻末に毎回のっていた》。丸見屋の重役のひとりの羽多海蔵は、三田の折口信夫教室の戸板康二の十年先輩の波多郁太郎のお父さんだった。《歌舞伎座が毎興行の初日を割引にし、二日目を「ミツワ会」の日にして、丸見屋のセットを景品にくれていた》とのことで、戸板さんは《ミツワ石鹸とサーワ白粉がはいった白いボール箱を貰った記憶がある》という。この「ミツワ会」と筋書の編集を受け持っていたのが丸見屋。


《約五十頁の絵本筋書は、原則として、表紙裏に演目と観覧料が印刷され、一頁目に、観劇おぼえを記入する欄があり、二・三頁が見開きで配役表、四頁から右側の頁に鳥居派の舞台絵、対向面に概況が「あります」調で掲載される》、《そのあとに邦楽出演者と狂言作者の連名、裏の大体二十頁の辺に、劇場の外観の写真と場席表の凸版と、編集の順序は一定していた》、《その次、二一頁に「俳優楽屋話」という中扉があり、めくると、三段組みで、中央に役者の素顔の写真、かならずカットが三行分あって、芸談の標題と、役者の芸名が据えられ、その月扮している役について、あるいは狂言について、談話がのる》という、丸見屋編集の筋書きの定価はずっと二十銭だった。


その狂言についての談話であるところの「俳優楽屋話」は《文献を広く渉猟した、信頼のおけるもの》なのだが、終盤になると突如話題が丸見屋の商品、「ミツワ石鹸」や「サーワ白粉」の PR で締めくくられるというもので、《広告になると、多くの観客は、次の談話に目を移したのではないかと思う》けれども、《しかし、そうはいっても、「夏と申せば、どなたも汗をおかきになりますが、入浴してサッパリとなさる時に、なくてはならないのがミツワ石鹸で御座います」という辺まで、釣り込まれて読んでしまったりした》。


……というような次第で、五反田で拾ったばかりの大正15年6月の歌舞伎座の筋書きを眺めて、上記の戸板さんの説明をそのまま踏襲する誌面になっているのを目の当たりにして、ふつふつと嬉しいのだった。



大正15年6月歌舞伎座の三津五郎の「俳優楽屋話」は『連獅子』について。《『連獅子』を中幕に据えまして、菊五郎の親獅子に私が子獅子の精を勤めて居りますが、二人で連獅子を踊りますのは、これが最初で御座います》という出だしで縷々語られたあと、最後に突如、《此頃の朝の、鬱陶しい心持をすっきりとさせますのはミツワ煉歯磨で……》というふうな展開となるのも、そっくりそのまま戸板さんの説明を踏襲していて、「やってる、やってる」とおかしくってたまらない。



戸板康二の「ミツワ文庫」の後半の以下のくだりがまた資料的価値満点。後日のために抜き書き。

 丸見屋商店は元来石鹸の製造販売元で、白粉は、はじめ伊東胡蝶園の御園白粉を扱っていたと、波多郁太郎氏の令弟である阪井欽三氏から聞いた。
 この胡蝶園は、名医伊東玄朴の子孫が開業したので、松竹系の筋書のスポンサーだったばかりでなく、玄朴の玄をとった玄文社という出版社をはじめ、杉贋阿弥の「舞台観察手引草」、田村成義「無線電話」、関根黙庵の「明治劇壇五十年史」といった好著を刊行したほか、「演芸画報」よりひと味新しい「新演芸」、ひとまわり小型で中芝居小芝居のファンを対象にした「花形」、婦人雑誌「新家庭」も発行した。結城礼一郎、鈴木泉三郎、長谷川巳之吉、仲木貞一、岡村柿紅、内山佐平、服部普白、堀川寛一、小林徳二郎というスタッフがいた。
 丸見屋は、雑誌こそ出さなかったが、本舗には演劇図書室が完備されていて、灰野庄平という「大日本演劇史」の著者が、明治四十四年から在社し、「ミツワ文庫」の楽屋話は、まず灰野氏によって執筆されたと考えてよいだろう。
 戦後、京屋印刷から発行されていた「劇場」という雑誌を、水木京太氏の急逝後編集することになって間もなく、交通事故で亡った高岡宣之氏も、丸見屋に勤務していたそうだから、灰野氏が昭和六年に歿したのちは、高岡氏が担当、「秋風もそろそろ立ち初めたようで御座います」といった文章も、書いたのではないかと思う。


というふうに、はなしは水木京太の「劇場」へと戻ってゆくのだった。明治製菓に勤めていた戸板康二、森永製菓にいた十返肇、コロムビア・レコードの高見順、玉川一郎、ちょっと前の時代だけどライオン歯磨の大手拓次……というふうに、このところ「モダン都市」時代の宣伝部や広告部で勤務の文筆家の系譜といったものを思って、ひとり悦に入っている。高岡宣之もそのひとりに組み入れることができそうだ。



高岡宣之で思い出して、たまたま現在図書館で借りだし中だった『安藤鶴夫著作集 第6巻』を取り出して繰っていると、安藤鶴夫を都新聞に紹介した人物として堀川寛一の名前が登場している。……というようなことをしているうちに、ホットミルクはすっかり冷めてしまって、ハイドンのレコードもいつのまにか終わっていた。


そんなこんなで、寝るのが遅くなって、歌舞伎座の椅子でムラムラと読み返したくてたまらなかった武智鉄二の「組討論」は翌朝にまわすことになった次第。歌舞伎座帰りの日は、いつも本読みがたのしくて、いつもつい宵っ張りになる。