浅草から東武電車で桐生へゆく。洲之内徹と南川潤と十返肇をおもう。

朝から雨がザアザア降っている。早起きして傘をさしてイソイソと外出。浅草から東武電車の特急にのって桐生へ向かう。桐生といえば、前々から大川美術館に行きたしと思えども、なかなか機会がやってこなかった。それが、先日立て続けに、桐生に死んだ南川潤を読んで少し親しみが沸いていたのと、その南川を愛惜する十返肇の回想文を読んで胸を熱くしていたのとで、このところ急に気持ちが盛り上がっていた。連休ではなくて週の合間にポツンの休日があるのはひさしぶり、桐生へ出かける絶好のチャンスのような気がする、ウム、この機会を逃してはならぬ、というわけで、いざ当日になると面倒になって順延といういつもの展開になるのを防ぐべく、ハリきって事前に東武電車の特急の指定席券を買っておくという作戦にでた。という次第で、当日雨がザアザアでも観念せねばならぬのだった。


しかし、浅草駅の東武電車のホームに来てみたら、やっぱりふつふつと嬉しい。浅草から東武電車に乗るのが大好きで、たまに機会があるとそのたびにふつふつと嬉しい。というか、そう機会はないので、いつもむりやり機会をつくる。今回の桐生行きも実は東武に乗りたいがために計画したともいえる。しかも今回は初めての特急電車で、さらに東武気分は盛り上がる。ボックスシートの指定席に無事に時間どおりに座ってホクホク、隅田川の鉄橋を渡る瞬間が待ち遠しい!




成瀬巳喜男『乙女ごころ三人姉妹』(昭和10年・P.C.L. )の一場面。浅草松屋の屋上から眼下を見下ろす、憂える細川ちか子の視線のあとさき。浅草から東武電車に乗るたびに毎回思い出すのが『乙女ごころ三人姉妹』。ロケ多様で、当時の浅草映像の記録という点でもたいへん貴重。松屋の屋上は遊園地の乗り物だけでなく、猿がいたりして動物園のようにもなっている、ということを、『乙女ごころ三人姉妹』はしっかりと記録している。



当時の成瀬映画を見ると桑原甲子雄の同時代の下町写真を思い出して、それだけでウルウルッとなる。などと、しょうこりもなく『乙女ごころ三人姉妹』を見てウルウルしていたら、「明治チョコレート」のネオンサインとともに「明治製菓売店」の夜景が一瞬映し出されているのを発見して、狂喜! 明治製菓タイアップ観察者のわたくしをもってしても3度目で初めて気づいた、そのくらいにさりげない登場。ちなみに、浅草の明治製菓売店は雷門前に昭和3年12月に開業、映画と同年の昭和10年11月、史上初の青酸カリ殺人事件の発生場所として犯罪史にその名を刻んでいる。『乙女ごころ三人姉妹』はストーリーの合間に何度か挿入される、浅草を映しだすショットの連続映像が絶品で、こうして広告看板なども何度も登場する。「光画」の「幻の写真家」飯田幸次郎の《看板風景》みたいだ。


【追記:海野弘『東京風景史の人々』(中公文庫)所収の「川端康成の都市方向」での引用にて、「今日の文学」1932年1月号掲載の川端康成「雑感日記」に《明治製菓の二階に一休みして、病める堀辰雄君を見舞はんとすれば、雨はぽつぽつ落ち来る。大河の橋の上で降りだされてはたまらず。六区に引き返す。僕は毎晩浅草へ来ることゆゑ、なにを見てもよし。横光の好みにて、富士館に入る。牧逸馬原作。村田実監督、夏川静江、小杉勇主演、「海のない都」》というふうにして、雷門の明治製菓売店が登場しているのを知った。ワオ!】



隅田川の鉄橋を渡る瞬間はあっという間だった。と、ここで、連日の無理な早起きがたたったのか、猛烈に眠くなってしまい、すっかり寝入ってしまう。なぜいつも、長距離電車にのると「のび太の昼寝」状態になってしまうのだろう。コンコンと眠り続け、ようやく目を覚ましてみると、電車は終点の赤城に到着するというところだった。大きく伸びをしたところで赤城駅で下車、ここで上毛電鉄に乗り換えて、西桐生へと向かうのだ。



寒さに震えながら赤城のホームで電車を待ち、上毛電鉄がやって来て、わーいわーいと乗りこむ。二両編成の車両は(Wikipedia によると「上毛電鉄700型」)、昔の井の頭線の車両(Wikipedia によると「京王3000系」)が使われているとのこと。かつて幾年も井の頭線で通学していた人生の一時期がある身として、往時の車両に乗り合わせることでヒタヒタと追憶にひたってジーン……と言いたいところであったが、昔の井の頭線ってこんなだったけなあと、今となってはまったく車両の記憶が残っておらず、いまいち実感がわかず。上毛電鉄は二両編成で自転車も乗ることができるようになっていて、ワンマン運転で降車は前方車両だけ、というような独特のしくみがおもしろかった。




本当にこれが昔の井の頭線の車両なのだろうかとモンモンとしているうちに、西桐生駅に到着。無事についてなにより。画像は、西桐生駅の駅舎の裏手。西桐生の駅舎は洋館ふうで、そこはかとなくモダン(Wikipedia によると昭和3年の建築)。桐生にはこんな感じの洋館ふうの古い建物がたくさんのこっていて、町全体が愛らしいと、あとであちらこちらで思うことになるのだけれど、西桐生の駅舎はその絶好の序奏だった。



西桐生駅から大川美術館までの十数分の道のりには道しるべが掲げてあったので、まったく道に迷うことなくたどりつくことができて、ありがたいことであった。最後は、美術館に向かって、ゼエゼエと急な坂道をのぼることになるのだけれど、息も絶え絶えにのぼるその途中、「添田唖蝉坊隠遁の地」の立札があった。高台の美術館からは桐生の町並みを眼下に見下ろすことができて、素敵だった(晴れていたらもっと堪能できたろうに…)。


長年切望していた気持ちの持っていき場がここに集約したッ、というくらいに、大川美術館(http://www.kiryu.co.jp/ohkawamuseum/default.htm)での時間はたいへんすばらしかった。午後までずいぶん長居をする。ほかに人のいない広々と迷路のように入り組んでいる静かな空間をクネクネと練り歩いて、あちらこちらでぜいたくに満喫。好きな画家、好きな絵がたくさんあった。


今月初日、埼玉県立近代美術館で熊谷守一展を堪能した記憶が鮮明なので、《着物の女》(1930年頃)と《白ばら》(1940年以降)の2点、熊谷守一の絵を見る瞬間は至福だった。初めて要町の熊谷守一美術館に出かけた日(2001年秋)からずっと大好きなのが《ハルシャ菊と百合》という絵で、後年の絵も大好きだけれど、後年の様式に至る前のタッチにも心奪われるものがあり、そのことを先日の北浦和でもしみじみ痛感して、それぞれの時代の熊谷守一の絵をたくさん見られる至福がとにかくもたまらないものがあった。大川美術館での2点の熊谷守一はその北浦和の追体験ともいうべきものだった。《着物の女》は《ハルシャ菊と百合》同様、筆が流れるように何度も厚く塗られているというタッチなのに、不思議と独特の透明感。《白ばら》は熊谷守一の様式の確立の直前という感じで、例によって単純なかたちと色の組み合わせの白ばらが不思議と実にうつくしい。というふうに、熊谷守一だけでなく、ああ、なんてすばらしいのだろう! というような感激をあちらこちらで満喫した時間だった。絵を見るのってなんて愉しいのだろう! というような素朴なよろこびにひたるのがなによりも嬉しい。



熊谷守一《野菜》(1949年)。埼玉県立近代美術館の《熊谷守一展》で見た、とってもたくさんの好きな絵のひとつとして。図録を迷うことなく購入したのはずいぶんひさしぶり(「資料」としてではなく)。3月は北浦和の熊谷守一展ではじまった。今月は展覧会見物がずいぶんたのしかったなあと思う。大川美術館はその絶好の締めになった。




長谷川利行《日暮里付近》(1938年)。大川美術館では、1枚80円の絵ハガキを何枚も買ってご満悦。熊谷守一がなかったのは残念だったけど、長谷川利行はあって、よかった。日曜日の竹橋に引き続いて、長谷川利行にツーンとひたった。ところで、海野弘『東京風景史の人々』中公文庫(asin:4122049806)のあとがきに、久生十蘭の本を執筆中とあるのを見て、キャー! とひとりで大騒ぎしていたのだけれど、早くも右文書院(http://www.yubun-shoin.co.jp/index.html)の近刊予告に「久生十蘭 『魔都』『十字街』解読」の案内があるのを発見! キャー、4月4日発売!




松本竣介《建物(青)》(1948年)。死の年の作品。現在大川美術館は「松本竣介特別室」が改装工事中で、今回はいつもより展示点数が少なかったとのこと(入場料が200円割引に)。改装工事完了のあかつきにはぜひとも再訪したいッと、再訪するチャンスができたのでかえってよかった、と気休めでなくて心から思う。と、日曜日の竹橋に引き続いて、松本竣介にツーンとひたるのが格別なのだった。おのずと思い出すのは、洲之内徹の「松本竣介の風景」(『気まぐれ美術館』所収)。帰宅後、ぜひとも読み返そうと思うのだった。



……というふうにして、好きな絵を書いてゆくとキリがないのだったが、あらためて絵をいろいろと見ることで、過去に見た絵の記憶が呼び起こされてまたあらたな感慨を得る、という展覧会行きのいつものたのしみを心ゆくまで満喫した時間だった。松本竣介を見ると、いつも洲之内徹を思い出す。洲之内徹と出会ったことで、それまで以上に展覧会での時間が格別なものになったものだった。というか、洲之内徹の存在を思い出してしまうような展覧会がもっとも好きな展覧会なのかもとさえ思う。


すべての絵を見終わって、最後は図書コーナー。その奥にヴィデオブースがあって、主に「日曜美術館」を録画した古いヴィデオ(懐かしのベータ)がたくさん並んでいて、自由に視聴できるようになっていた。ハテどんなものがあるのかなとなんとはなしに眺めていたら、平成6年2月20日放映の宮城県美術館の「洲之内徹コレクション」特集が! と、狂喜乱舞でさっそくランランと視聴。洲之内徹の在りし日の映像を初めて見た。最後の最後まで、大川美術館では、洲之内徹を思うのだった。



すっかり出るのが遅くなってしまった。あいかわらず冷たい雨がシトシト降り続いている。大川美術館のあとは、どこまでも続く坂道をゼエゼエとのぼった丘のてっぺんにある吾妻公園内の南川潤の文学碑を見にゆこうと思っていたのだけれども、さすがにあきらめることにする。大川美術館再訪時に出かけられればいいなとまたの機会を待つこととしようと気持ちを切り替えたところで、もと来た坂道をくだってゆく。


去年秋に郡山に出かけたあとで(id:foujita:20071014)、部屋でなんとはなしに岡崎武志著『気まぐれ古書店紀行』工作舎(asin:487502391X)を読み返してホクホクとなっていたら、出かけたばかりの会津若松や郡山のことが心地よく書かれてあるのを見て、岡崎さんのあとを追うようにして「古書店紀行」をしたかったなア! と、いつまでもムズムズしてしまった。しかし、それはあとの祭りで、今後気をつけるとしようと、『気まぐれ古書店紀行』はどこかしら小旅行へ出かけるときの必須文献である、ということを心に刻むのだった。


着実に過去の経験から学習しているわたしである。今回は、桐生に出かける前にしっかりと『気まぐれ古書店紀行』をチェックし、コピーまで持参するという周到ぶり。というわけで、大川美術館のあとは南川潤の文学碑をとばして、『気まぐれ古書店紀行』に出てくる古本屋へ向かって、ズンズン歩いた。桐生はところどころの古い建物が、特になんということもないのかもしれないけれども、そこはかとなくいい感じで、あちらこちらで「いいな、いいな」と思う。古本屋までの十数分の道を歩いただけで、桐生の町そのものがそこはかとなく好きになっていることに気づいて、いつのまにか上機嫌になっていた。傘をクルクルまわして、古本屋へ向かう。



南川潤『風俗十日』(日本文学社、昭和14年2月)のタイトルページ。装釘は鈴木信太郎で、和木清三郎が序文を寄せていて、戦前の「三田文学」あれこれを追う身にとっては、たまらない一冊。


今回行き損ねた吾妻公園の文学碑建設に際して、『風俗十日 南川潤年譜』(南川潤文学碑建設委員会刊、1977年9月)というのが発行されている。『風俗十日』の復刻版と「南川潤年譜」と「南川潤文学碑報告書」が箱入セットに収まっているというもので、絶好のというか唯一の南川潤(と桐生)の資料なのだけれども、ご当地の古本屋にしっかりと売っていて、嬉しかった。し、しかし、すでに図書館で閲覧済みで満を持して買おうと思っていた本をご当地の桐生で買う運びとなったのがなによりも嬉しい……と言いたいところだったけれども、嗚呼、この本、待ち切れずについ先日神保町で買ってしまったばかりなのだった。先に買っていなければ、桐生で南川潤を買う、という特権的瞬間を堪能できたのに、ままならぬことであった。ほかに目にとまったのが、田山花袋文献。そうか、花袋は群馬の出身だったっけと思い出してたのしかった。



ちょいと遅めのお昼ごはんは、古本屋の並びの焼きそば屋にて。『気まぐれ古書店紀行』を読んで、ぜひともここでお昼ごはんをと思っていたので、念願かなってうれしい。焼きそばはとてもおいしかった。じゃがいもが入っているのが独特でそこはかとなく地方色を感じる。食べているうちに旅行者気分が盛り上がってくるのがたのしかった。



お昼ごはんを食べて安心したところで、古本屋の並びの通りをズンズンと直進。桐生の目抜き通りのようで、商業地区に入ると歩道にはアーケードがかかっていて雨降りでも楽チン、いろいろな個人商店(たぶん)が軒を連ねている。そのそれぞれの商店の感じがなかなかいい感じで、古い建物をそのまま残して、そのまま商売が続いているサマがとてもよかった。古色蒼然とした建物の見物に次々とワクワク、しかし古色蒼然としつつも「廃墟」感は皆無で、町全体が静かに「生活」しているという感じ。そんな桐生の町がすっかり気に入ってしまって、傘をさしたり畳んだりして歩いて、ふわふわとたのしかった。とにかくもいろんな商店がある。おせんべい屋があり錠前屋があり豆腐屋がある。本屋もある。文房具店もある。古本屋に来る前にも和菓子屋を何軒も見た。桐生は和菓子が盛んなのかな。前を通りかかった喫茶店は見かけはごくふつうのコーヒーを出すような喫茶店なのに看板メニュウが「特製あんみつ」となっているのが、独特でおもしろかった(食べてみればよかったかな、とあとで思う)。とりわけおもしろかったのが、繊維産業が栄えた伝統が今も残っているようで、衣料品店がたくさんあるということ。そのところどころの衣料品店は、古本屋で昔の洋裁雑誌とか婦人雑誌を見ている気分の、ハイカラな洋風建築なのがいちいちおもしろかった。どのお店もしっかりと健在で営業を続けている。生活をしている。桐生の町は、昭和30年に死んだ南川潤のいた頃とそんなに変わっていないのではないかしらと思う。南川の死の一週間前に桐生を訪れた十返肇が見た町並みと、そんなに変わっていないのではないかしらと思う。そのことがなによりも嬉しかった。


駅方面へと向かう。JRの桐生駅前には、絵に描いたような「駅前旅館」があった。昭和30年9月17日、十返肇は南川潤に呼ばれて桐生で講演をした(「講演にかこつけて君に会いたかったんだ」という南川の言葉が泣かせる…)、その数日後の9月22日に南川は急死し十返は愕然とすることになったのだけれど、その折に十返が投宿した旅館はここに違いないと勝手に決めつけて、大いによろこぶ。夜中まで南川と十返が語り明かした旅館はここに違いないと勝手にきめつけて、大いによろこぶ。




十返肇『文壇放浪記』(角川書店、昭和37年10月)。装釘:永田力。昭和文壇の挿話の数々がたいへん面白くて、十返肇の軽やかな筆致が実によい。文壇資料としても秀逸で、事実野口冨士男は『十返肇著作集』を編むにあたって『文壇放浪記』を全篇収録している。さて、ここに、十返肇がまもなく他界することとなった旧友南川潤に講演に呼ばれて桐生を訪れるくだりがあるのだけれども、あとになって《桐生で有名な西洋料理店で御馳走になり…》とあるのを見たとたん、メラメラとそのお店に行きたくってたまらない。大川美術館の改装工事が終わったあかつきに桐生を再訪して、次回はぜひともここを訪れて南川潤と十返肇を偲びたいと思う。



というふうにして、ふりだしの上毛電鉄の西桐生駅に戻った。行きとおなじく、上毛電鉄にのって、赤城駅で東武電車に乗り換えて、帰京。往路とおんなじように、東武電車の特急の指定席に座り、電車が走り出したとたん「のび太の昼寝」状態で寝入ってしまうのだった。コンコンと眠り続け、車窓から東京拘置所が見えるころにようやく目を覚ます。ここまでぐっすり寝られると、かえって爽快であった。往復ともにこんなにも眠り続けるとは、無理な早起きによる日頃の睡眠不足の解消にもなって、一石二鳥だったといえよう。


日没後、浅草に到着。あいかわらず冷たい雨がシトシト降っている。桐生のアーケードさながらの歩道をズンズン歩いて、ビールを1杯だけ飲んだあと、おいしいコーヒーをじっくりと飲んで、本日の遊覧をしめくくる。桐生がすっかり気に入ってしまった。今回の懸案(雨降り、大川美術館の改装、いくつかの南川潤遺跡……等々)を胸にぜひともまた再訪するのだとメラメラと思っていうちに、このところなんだか群馬が好きなので、桐生のほかにも出かけたいなと思ってみたりもする。って、たむらや(http://www.tamuraya.com/)の味噌漬けとガトーフェスタ・ハラダ(http://www.gateaufesta-harada.com/)のラスクが最近の好物なので、にわかに群馬に親しみが沸いているだけなのだけれども……。と、それはさておき、未来の遊覧のたのしみが増えたところで、家に帰ることとする。あいかわらず雨がシトシト降っている。


成瀬巳喜男『妻の心』(昭和31年・東宝)の舞台が桐生だと、あとで知った。たしか未見だったはず。ぜひとも見たい! 南川潤が死んだ昭和30年とほぼ同年の桐生を見ることができるなんて!