すばらしや坂本万七展。「スタヂオF」の記録映画。歌舞伎座夜の部。

演劇博物館(http://www.waseda.jp/enpaku/)にて今月開催されている《坂本万七 新劇写真展》が圧倒的にすばらしい、というか、その図録が圧倒的にすばらしい。



展示図録《坂本万七 新劇写真展》(早稲田大学坪内博士演劇博物館、2008年3月1日発行)。このたいへん充実したすばらしい図録がなんとたった1300円! いわゆる「モダン都市東京」の文献として、また新たに魅惑的な1冊がわが書架に加わって、ただただ嬉しい。ゆまに書房の「コレクション・モダン都市文化」の1冊が『築地小劇場』(第3巻)である、ということが如実に示しているように、築地小劇場のまわりには、「モダン都市東京」的なあまりに「モダン都市東京」的なあれこれが、衛星のようにグルグルと散らばっている。築地小劇場にはいろんな芋づるがある。


《坂本万七 新劇写真展》は、築地小劇場の舞台をその創設時から写している「新劇写真」集で、ここまで鮮明に写真を見ることができるということに、まずは驚嘆するしかない。この膨大な貴重な写真はガラス乾板の状態で昭和19年、坂本万七自らの手で演博に寄贈されたとのこと。おかげで、写真は戦禍をまぬがれ、60年以上もの年月を経て、このたび演博でデジタル化作業がほぼ完了。今回の展覧会はデジタル化完成を記念して催されているもので、おかげで現在この図録で、数々のすばらしい写真を驚くほど鮮明な画像で見ることができるのだった。


ここで見ることができる坂本万七の舞台写真は上演中の舞台ではなく撮影用に設定した舞台をとらえたものなので、かえって舞台装置や俳優の顔やその衣装、戯曲の決定的な場面の静止図を強調してみることができるわけで、それだけで絶好の資料だし、さらに、映し出される役者の顔、顔、顔には圧倒されるばかりなのだった(とりわけ丸山定夫の風貌にシビれまくり)。と、そんな築地小劇場の内部のみならず、劇場の外、「築地2丁目 左の道を進むと築地小劇場」の図(1926年3〜4月)や昭和8年の築地小劇場の裏手の様子、屋根を撮影した写真があっと驚く臨場感で迫ってくる。「トラブ劇場展 築地小劇場創立10周年を記念して紀伊国屋書店で同時開催された企画展示」(1933年6月18日)の写真に極私的に大喜びだった。昭和8年といえば、野口冨士男が紀伊国屋書店の出版部に入社した年(当時野口冨士男が書いていた新劇評を読まねば)。とにかくも、「モダン都市東京」文献としてたいへん魅惑的で、もうあちらこちらでクラクラするしかないという感じなのだった。

 僕はどの年齢にあって、あの当時を、東京という都会に住んで、わずかでも芸術ということに関心を寄せていたほどの青年たちにならば、誰にでも、多かれすくなかれ、そういう経験がなくてはならなかった筈である。――僕にもまた、築地小劇場(ああ、あのなつかしい灰色の小屋も、いまでは国民新劇場と名をあらためてしまったのだ)や、帝国ホテルの演芸場や、やがては本郷座や、市村座や、帝国劇場などでもおこなわれるようになった新劇の公演という公演は、ただのひとつも見のがすまいとして追い歩いていた、ひとつの時期があったのだ。
 その、ほんのすこし後のことである。
 そして、そこは、田村町の飛行館や、市政講堂や、あるいは蚕糸会館というような、つまり、ビルディングのホールを使用するようになった、謂ゆる新劇公演の「講堂時代」に相当する。
 云いかえるならば、それは、「大劇場進出時代」の直後につづく、研究劇団乱立の一時期でもあった。年代的に云えば昭和の初年であり、西欧派のかぞえかたにしたがえば、千九百三十年代のはじめにあたる時期であった。


【野口冨士男『黄昏運河』新鋭文学選集5(今日の問題社、昭和18年3月5日発行)】


このすばらしい図録をつくったのはどなたかしらと確認すると「執筆・編集」は中野正昭さんとのことでジーン、「中野正昭さん、あなたはすばらしい!」というような心境になる。中野正昭さんの仕事といえば、去年開催の古川ロッパ展は実にすばらしい展覧会だったし実にすばらしい図録だったと、記憶に新しい。それから、演劇博物館紀要「演劇研究」に連載中の中野正昭さんの「ロッパのいる演劇史 ――『古川ロッパ昭和日記』私注――」がとてもおもしろくて、現在本になるのがもっともたのしみな文章のひとつ(気が早い)。




成瀬巳喜男『噂の娘』(昭和10年12月封切・P.C.L.)のラストシーン。酒屋の向かいの床屋。ヴィデオで再見していたら、タイトルロールに名前のなかった三島雅夫と滝沢修が登場しているので(スクリーンで見たときは見逃していた)、「おお!」と思わず撮影したもの(アホ)。滝沢の立派な頭部に惚れ惚れ。などと、特に関係がないのだけれど、《坂本万七 新劇写真展》を見て、急にこの映画のことを思い出したので。三島雅夫や滝沢修といった新劇人のアルバイト先としての映画。『噂の娘』といえば、汐見洋がかねてからなんだか好きで、その零落しつつも飄々としていて、現実を見ていないようで実は達観していそうな感じもするところなど、なんとなく「久保田万太郎の戯曲」的人物という気がする。《坂本万七展》図録を見ていて、あのときの汐見洋のことを急に思い出した。『大寺学校』では汐見洋は光長を演じている。……とかなんとか、《坂本万七 新劇写真展》図録は役者の写真集としても実に秀逸で、映画文献でもあるのだった。何度でも言うが、このすばらしい図録がたったの1300円!



ちょいと時間があいたので、フィルムセンターの展示室で《マキノ映画の軌跡》展を見物すべく、京橋で下車。常設展示コーナーでさっそく、おのおののモニターに映し出される数々の「発掘された」映像に次々と目がランランとなってしまうのだけれど、なにはさておき、《五所平之助とスタヂオF》なるトピックが用意されていたことにとにもかくにも極私的に狂喜乱舞だった(見逃さないで本当によかった!)。このブースに興奮のあまり、肝心のマキノ展を見る時間をなくなってしまった。近日再訪したい。


「スタヂオF」については、『プロデューサー人生 藤本真澄映画に賭ける』(東宝株式会社出版事業室、昭和56年12月)所収の藤本真澄の回想録で初めて知って以来、なにかと心ときめかしていたものだった(こちらの回想では「スタジオ・F」と表記されている)。「スタヂオF」というのは昭和10年ころの五所平之助を中心にした映画人のサロン的な集まりで、当時明治製菓宣伝部にいた藤本真澄(昭和9年半ばに入社、昭和11年に P.C.L. へ)と、松竹から P.C.L. への移籍(昭和9年6月)という局面を経た成瀬巳喜男もそのメンバーだった(そもそも五所平之助は、藤本真澄を内田誠に紹介して明治製菓入社のきっかけをつくった人物)。その事務所が銀座アパート(五〇八号室)だったというのも、いかにもモダンボーイのお道楽めいていて、ついにんまりなのだった。さらに心ときめくのは、「スタヂオF」の面々は「近代映画」という雑誌を発行していたこと。ますます、モダンボーイのお道楽めいている! 当時宣伝部在籍の藤本真澄の縁で明治製菓にもスポンサーをたのんでいたとのことで、「スタヂオF」は戦前の明治製菓宣伝部にまつわる魅惑的トピックのひとつなのであった。「近代映画」は第1号のみ演博の図書室に所蔵されていて、よろこびいさんで閲覧に出かけたことがあった(「近代映画」第1号、スタヂオ・F社、昭和10年12月1日発行)。上掲の『噂の娘』と同時期で、目次の下にはその広告が掲載されている。


と、明治製菓宣伝部の PR誌「スヰート」あれこれを追う身にとっては、なにかと魅惑の「スタヂオF」なのだったけれど、フィルムセンターの展示室にはなんと! 「スタヂオF」の面々がピクニックに興じているサマを鮮やかに映す記録フィルムが再生されていたのだった。ああ、なぜもっと早く気づかなかったのだろう、と地団太を踏む思いで、「キャー!」とその鮮明な映像を眺めて、じっと立ち尽くして、ウルウル。五所平之助、藤本真澄、成瀬巳喜男に千葉早智子、忍節子、小林十九二といった人たちがピクニックに興じている、『花よりだんご』と『高雄山』というタイトルの2本の「発掘された」フィルムが再生されていて、いずれも年代は「昭和10年頃」だそうで、いずれも五所平之助の寄贈によるもの。フィルム缶の中央に貼ってあるお手製ラベルの、タイトルをあしらったちょっとしたデッサンが洒落っ気たっぷりで、これは五所平之助によるものかなとにんまり。五所平之助寄贈のフィルムは全部で3本紹介、残りの1本は「スタヂオF版『あこがれ』」と称したフィルムで、「松竹蒲田版『あこがれ』」と同時にプライヴェート版として撮影したフィルムとのこと。五所平之助『あこがれ』(昭和10年10月封切・松竹蒲田)は藤本真澄が《高杉早苗への想い切なく》五所平之助にもちこんだ企画がもとになっていて、佐分利信の松竹入社初作品でもある。佐分利信が松竹への入社をたのみに藤本真澄を訪ねたり、宣伝写真を撮影するために高杉早苗が訪れたりと、『あこがれ』撮影前夜、京橋の明治製菓ビルの藤本真澄の周辺もさながら映画人のサロン的な雰囲気だったのかなと思う。


と、興奮のあまり、長々と書き連ねてしまったけれども、戦前明治製菓にまつわる魅惑的トピックの「スタヂオF」資料に、鍛冶橋通りの明治製菓本社とごく近所のフィルムセンターで対面したというなりゆきが、臨場感たっぷりで実によかった。明治製菓が丸の内から現在の京橋の地に移転したのは昭和8年5月のこと。

 五所平之助を中心に、P・C・Lへ入った成瀬巳喜男などと映画の好きな連中の集まるサロンをつくろうではないかということになり、東銀座一丁目のアパートの一室を借りた。まだ鉄筋のアパートなど少ないときだったので、この銀座アパートは堂々たるものだった。ソファーや椅子が入り、凝り屋の五所は八咫屋の額など飾り、部屋は以前の独立映画研究所などとは異なり、せまいながらも立派なものだった。サロンの名前をどうするかといろいろ案が出たが、五所の命名で「スタジオ・F」ということにした。音がよいからだということだった。FはFIFTH(五階)のFでもFILMのFでもいいではないかというのが五所の説明だった。メンバーは五所、成瀬のほか、当時は松竹蒲田で五所組のチーフ助監督をつとめ、のち間もなくJ・O・スタヂオに入り夏川静江と徳山除??蜑奄ナミュージカル映画「百万人の合唱」を監督した富岡敦雄。劇作家の菅原卓と内村直也の実弟で慶応の学生の菅原誠など映画好きが二十人ほど集まった。サロンだからスタジオ・Fでは会の目的など話し合ったことはなかった。十銭銅貨を入れて点火するガスで湯を沸かし紅茶を飲みながら、見てきた映画のことをしゃべり合い、けっこう楽しかった。月に何回かは定期的に集まり合評会などもやった。そのうち誰いうこともなく雑誌を出すことになった。明治製菓にスポンサーになってもらい、五所の顔で広告を取って発行していこうというのである。B五版六十四ぺーじの総アートの贅沢な雑誌を出した。表紙のデザインは五所組の美術監督・金須孝が担当してくれた。金須はスタジオ・Fのマークもデザインしてくれた。


【尾崎秀樹編『プロデューサー人生 藤本真澄映画に賭ける』(東宝株式会社出版事業室、昭和56年12月1日発行) - 「3 明治製菓の宣伝マン時代」より】


「スタヂオF」と同時代、すなわち藤本真澄の明治製菓宣伝部時代の「スヰート」として、第9巻第4号(昭和9年12月15日発行)。表紙の鴨下晁湖は、久保田万太郎の浅草での幼なじみ。昭和9年は「いとう句会」が結成された年でもあった。この号では、伏見晃による「トンビを着たサンタクロース」というタイトルの童話を読むことができる。翌年発行のスタヂオ・F社発行の「近代映画」第1号には、五所平之助『人生のお荷物』(昭和10年12月封切・松竹蒲田)の伏見晃によるシナリオが掲載されているのだった。




展示室のモニターの上に、「スタヂオF」の会員を映した写真パネルがあった。若き日の藤本真澄の美男ぶりにはいつも目を見張るものがある(後年の風貌からは想像もつかない…)。この画像は、《明治製菓本社(京橋)の食堂で婦人雑誌掲載の宣伝写真におさまる藤本真澄》、尾崎秀樹編『プロデューサー人生 藤本真澄映画に賭ける』(東宝株式会社出版事業室、昭和56年12月1日発行)より。この藤本真澄の颯爽とした美男ぶりはもう俳優みたいな貫禄! 



歌舞伎座、《三月大歌舞伎》、夜の部の初日を見物。『鈴ヶ森』は芝翫の白井権八に富十郎の幡随院長兵衛。『娘道成寺』は「坂田藤十郎喜寿記念」と銘打ってあり、菊五郎初役の『お祭佐七』は初めて見る演目。それにしても、こんなにまで歌舞伎座行きがたのしみだったのはずいぶんひさしぶり(と先月も書いていたような気が…)。と、とにかくもたいへんたのしみだったので、イソイソと見物にやってきたのだったけれども、ひさびさに全編自分にとっていい感じに見物できて、よかった。富十郎の幡随院長兵衛はあまりにかっこよいのでびっくり。プロンプターがついているのが明らかなのに、その台詞を富十郎が口にすると、パーッと江戸の侠客のかっこよさがポワーンといい香りがただよってくるみたいにして劇場の空間に広がる。それが身体にビンビン響いてきて、その姿も風格たっぷりで、とにかくもかっこよい。阪妻の幡随院長兵衛のようなかっこよさだった。なんて映画にたとえたら怒られそうだけども、なんというか、漠然と日頃思い浮かべている、不定形な「幡随院長兵衛」的なかっこよさが今ここに富十郎によって顕在化している! という感じで、ジンとなった。


藤十郎の娘道成寺も、ジンジンとその時間、というか空間にひたる。特に好きだったのが、「恋の分里」からところ。廓の名前が織り込まれるところで、浮かび上がる遊女の表情を見ていてなぜか急に思い出したのが、鳴滝組の脚本のこと。とかなんとか、このところ映画のことばかり考えているので、すぐに映画のことを思い出してしまうのだったが、藤十郎が無類なのは、最後の鐘に入る直前に鈴太鼓をたたいて踊っているところで、ここで表情が女のそれから怨霊のそれへと、人間から異形のものへと変容していくところが絶妙であった。『葛の葉』の舞台を思い出した。この藤十郎の表情を見ているうちに、伝説の世界へと思いが及んで、日本芸能史そのものを見たという気になってくる。……などと、うまく言葉にはならないけれども、歌舞伎を一生見続けていたいものだとしみじみ思った深遠な時間だった。特におもしろがってはいなかったけれど、五代目菊五郎初演の『お祭佐七』も見て大いに嬉しい舞台だった。