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目黒で山本武夫展を見て、バスにのって自由が丘。宮本三郎美術館へ。

正午、目黒へゆく。目黒区美術館(http://www.mmat.jp/)で《山本武夫展 美人画と舞台美術》を見物する。


山本武夫を知ったのは、戸板康二を読むようになって、内田誠と明治製菓の「スヰート」に心惹かれてゆくなかで、小村雪岱とともにその名を心に刻んだのがきっかけだった。明治製菓の内田誠宣伝部長のもとで若き戸板康二は、PR 誌「スヰート」編集といった宣伝部としての業務をこなす一方、内田誠の私設秘書的な仕事も多くしていた(久保田万太郎の秘蔵っ子ということもあり、よほど気に入られていたのだと思う)。昭和15年10月に他界した小村雪岱にまつわる諸々の雑務もそのひとつ。内田誠の指令で戸板康二は、雪岱の旧蔵本の売りたての手伝い、いとう句会の雑誌「春泥」雪岱追悼号(昭和15年12月刊)の編集、一周忌に際しての資生堂ギャラリーにおける「小村雪岱追悼展覧会」(昭和16年9月20日から23日まで)および「小村雪岱遺作展覧会」(同年10月10日から13日まで)の準備委員、遺文集『日本橋檜物町』(高見沢木版社、昭和17年11月20日発行)の編集といった、雪岱にまつわる一連の仕事をこなしてゆくこととなった。戸板康二と山本武夫は、それら一連の仕事相手として知り合ったのが最初。いわば内田誠を媒介に知り合ったというわけだ。雪岱が他界した昭和15年、明治製菓宣伝部の戸板康二は25歳、資生堂(意匠部のちに宣伝部)に在籍中の山本武夫は30歳。と、戦前に知り合ったふたりだけれど、後年、山本武夫は、戸板康二の中村雅楽シリーズの挿絵をかいたり、戸板康二の著書の装釘もしている。戦後も「仕事仲間」としての関係が続いているのだった。


……というような次第で、長年、山本武夫は極私的にたいへん気になる人だった。その山本武夫の回顧展が催されるとは! と開催を知ったときはたいそう心が躍ったものだった。と、三連休の最終日、張り切って目黒にやってきたのだったが、いざ目の当たりにしてみると、美人画はどうもあんまり好みではなく、舞台美術はそれなりに興味深いけれどもあんまり立て続けに見ているとだんだん飽きてくる、が、書物関係の展示はなかなか面白かった。挿絵の原画は、印刷に映えるような線と余白の配置、小さい紙面に効果的なデザインとしての要素といったものが、さすがはプロフェッショナルとしての矜持がみなぎっていて、職人的端正さが見ていて爽快だった。その装釘本も同様で、単なる「絵画」ではなしにタイトルや著者名、背表紙の折り目など「カヴァー」として映えるように描くといったことが、これまた、さすがはプロフェッショナル、なのだった。中村雅楽シリーズの挿絵の原画が展示されたらどんなに嬉しいだろう、嬉しいあまりに卒倒しそう! と心配していたのだけれどそれは杞憂だった。しかーし、戸板康二の著書、講談社文庫版『小説・江戸歌舞伎秘話』(昭和52年)、講談社文庫版『團十郎切腹事件』(昭和56年)、『團蔵入水』(講談社、昭和55年)の以上3冊の装釘原画があって、卒倒はしないまでも大喜びだった。くすんだ古本を手に取ったときはそんなには気にとめていなかったけれども、原画を目の当たりにすると、やはり端正。



戸板康二『團蔵入水』(講談社、昭和55年9月10日発行)。装釘:山本武夫。初めてこの本を手にしたとき、カヴァーよりもむしろタイトルページの色のデザインがお気に入りだった。


他に、舞踊界の小冊子のデザイン、資生堂の仕事と参考として雪岱原画の展示があった。と、展覧会会場を見通してみると、美人画、舞台装置、挿絵、装釘、資生堂……といった並びが、そのまんま雪岱の仕事の継承のようになっていて(比較してみるとますます雪岱のすばらしさが際立ってしまうにしても)、小村雪岱に決定づけられた山本武夫の一生、というのにしみじみ感じ入る。と、同時に、雪岱のいた戦前と山本武夫の活躍した戦後を対照させて、「戦前」と「戦後」といったものにしみじみ感じ入るものがあった。雪岱に山本武夫を紹介したのがほかでもない久保田万太郎だったことは、今回の展覧会で初めて知った。山本武夫と久保田万太郎はどこで知り合ったのだろう? ということがどうしても気になってくるのだけれど、図録所収の「山本武夫と舞台美術」というタイトルの論文で井上理恵さんがそのつながりをいくつかの仮説とともに推測しているのをみると、正確なところは今のところ不明のようだ。戸板康二と内田誠が知り合ったのも久保田万太郎を媒介にしているわけで、人と人とをつなげる万太郎の才覚(のようなもの)にあらためてハッとしてしまうのだった。文人としての戸板康二の一生だって多分に久保田万太郎に決定づけられたのだ。


と、山本武夫の仕事そのものというよりも、山本武夫をとりまくあれこれ、浅草生まれ、久保田万太郎、小村雪岱、資生堂意匠部(雪岱の紹介で入社)といった追随するあれこれがいろいろなものにつながり、合わせて日頃から興味津々の装釘、挿絵といった「本の美術」に眼を見開かされ、期待どおりに極私的にフツフツと刺激的な展覧会だった。



小村雪岱『日本橋檜物町』(高見沢木版社、昭和17年11月20日発行)の本体。函は灰色がかったブルー。山本武夫の装釘本で一番のお気に入りは迷うことなくこの『日本橋檜物町』である。実際に手にとってみると、びっくりするくらいうつくしい。



目黒区美術館は付随の常設展示《美女の図、美男の図〜藤田嗣治、高野三三男から現代作家まで》もなかなか満喫であった。いい気分で外に出て、昼下がり、目黒通りを等々力に向かって走る都バスにのって、自由が丘方面へ向かう。八雲3丁目のバス停で下車。駅に近づくにつれて人混みをぬってゆくこととなり、線路を越えるといつのまにか人混みはなくなって、界隈はふたたび閑静なたたずまい。宮本三郎記念美術館(http://www.miyamotosaburo-annex.jp/)へ《宮本三郎の書斎 絵画と書籍》展を見にゆく。


3年ほど前に一度訪れたときの記憶を胸に(id:foujita:20041104)、まったく期待していなかった宮本三郎美術館であったけれども、3年ぶりに訪れてみると、展示室は3年前とは比較にならぬ洗練された空間となっていて、ワオ! だった。再訪してよかった。宮本三郎の書斎にあった書物と宮本三郎の装釘本と絵画とを交えた展示。展示室の真ん中に、画家のアトリエにあった椅子とキャンバス立て(のようなもの)が据えられてあり、かつてこの地にあった宮本三郎の邸宅に思いを馳せることができるような気くばりが感じられ、その設計がなかなかよかった。宮本三郎の油彩は全体的にはそれほど好みというわけではないのだけれど、時々好きな絵がある。内なる「芸術」というものへの穏やかな対峙が感じられて、そんな感覚がなんだか好きだ。小磯良平の絵にも通じる感覚。「婦人公論」など1950年代の雑誌の表紙絵の展示が面白かった。先月吉祥寺美術館で見た土門拳展での「婦人公論」の表紙写真(映画女優と日本美術とが被写体)を思い出し、海野弘先生言うところの「女性都市東京」を思ったりする(資生堂企業文化部発行『日本の化粧文化 化粧と美意識』より)。そして、1950年代の雑誌ジャーナリズムのようなものを思うと同時に、創刊の昭和25年から数年間のA5 サイズ時の「藝術新潮」がとても好きなのだけど、そんな「1950年代」美術界とその周辺、というようなことも思って、ワクワクだった。



『ぬりえ 第1集』(暮しの手帖社、昭和26年8月1日7版発行)より、宮本三郎画《おもちゃ》。展示室の椅子に、図録と一緒に最近再刊された(と初めて知った)暮しの手帖社の「ぬりえ」の復刻版が置いてあった(http://www.kurashi-no-techo.co.jp/index.php/books/b_1122.html)。ペラッと手にとってしばし眺めたところで、かつて教文館の「暮しの手帖」フェアで衝動買いしてしまった初版のぬりえのことを思い出して(id:foujita:20050618)、帰宅後、何年ぶりかで眺めることに。画家による絵が美しいカラー図版となって貼り付けてあって、その隣のページに同じ絵を白黒にして拡大して印刷してある。そこに「ぬりえ」をするという仕組み。練習帳が付録でついている。第1集に登場の画家は鈴木信太郎、小磯良平、宮本三郎、児島善三郎、初山滋、杉本健吉、三岸節子、長谷川春子。と、「1950年代」画壇といった顔ぶれになっている。大橋鎮子が「わたしも絵が描けたらいいな」というようなことをポツリと口にしたら、三岸節子が「あら、こうすれば描けるわよ、色を塗ればいいのよ」と言って発案したのが、暮しの手帖社「ぬりえ」発行のきっかけとなった。と、この挿話が好きだ。復刻版がもっと素敵な造本になっていればよかったのにと思う。