読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

平日日記:南川潤と高見順。戸板康二の命日に雪岱の雪うさぎを見た。

月曜日。早起きして、喫茶店で本を読む。先月、まさしく満を持してというふうに、かねてからの念願だった『野口冨士男自選小説全集』(河出書房新社、1991年7月)を買った。新しい年がはじまってから、喫茶店でコーヒーをすすりながら、毎朝1、2篇ずつ、チビチビと読み進めて、金曜日、上巻がおしまいのページになった。あたらしい週がはじまったところで気も新たに、さア下巻に入るといたしましょう! といきたいところなのだけれど、下巻初日は上巻のおさらいをすべく、保昌正夫による解説をじっくりと読むこととする。で、残りの時間は、特に深い考えもなく持参した、南川潤の『生活の設計』をちょいと繰ってみることに。週末に五反田で買ったばかりの本(200円)。南川潤は、野口冨士男らによる「青年芸術派」のひとりであり、戸板康二と同時代の「三田文学」の若き書き手であり……ということで、もう何年もそこはかとなく気になっている文学者のひとりなのだった。つい最近、十返肇による追悼文(『文壇放浪記』)に感涙していたばかりだったのでタイミングがよかった。そして、なんといっても『生活の設計』というタイトルがいい。南川潤を読むのは京橋図書館で『青年芸術派・新作短篇集1』を借り出して以来(id:foujita:20060726)。



南川潤『生活の設計』(淡海堂出版、昭和16年7月初版)。装釘:古沢岩美。買ったのは同年11月発行の第7版。10,000部発行とあるから当時ずいぶん読まれた本のようだ。


『生活の設計』は『愛情の建設』という小説の続篇にあたるとのことで、本篇のまえに「作者の言葉」なる解説がついていて、さながら前後篇の映画の後篇の冒頭で、前篇のダイジェストを見ているかのような感じでなんだかたのしい。『生活の設計』は要するに、清く正しく美しく生きる戦時下の東京の勤労男女がいかに結婚にたどりつくかというストーリーらしい、と適当に様子をつかんだところで、ひとたび読みだしてみると、南川潤の作品ということで期待したとおりの、なかなかいい雰囲気の「都会派風俗小説」で、グングン読み進めてしまうのだった。生活の不如意を抱えつつもそれに立ち向かって毎日を着実に生きている人びと。登場人物すべてがそれぞれに懸命に生きている。特になんということのない「通俗小説」的作品なのだけれど、それだからこそ、戦前日本映画を見ているときのような気分で、そんな気分がなんともよいのだった。島津保次郎の『兄とその妹』とか小津安二郎の『戸田家の兄妹』とか、そんな感じの気分。ヒロインの友人のちょいと勝気な女子の姿はまさしく桑野通子! (あとで確認したら昭和17年東宝でしっかり映画化されていた。専務とその令嬢、進藤英太郎と原節子はいい線いってる!→http://www.jmdb.ne.jp/1942/br000180.htm)。


日没後はイソイソと、雲助の『明烏』を聴きに紀伊国屋寄席へ。紀伊国屋ホールのロビーの椅子で南川潤の『生活の設計』読了。




水曜日。戸板康二の命日は朝から雪が降った。ひときわ早く外出して、喫茶店でコーヒーを飲む。届いたばかりの、高見順『朝の波紋』(角川文庫、昭和31年2月)を読み始める。五所平之助の映画を見て以来(id:foujita:20040921#p3)、ずっと読んでみたいと思っていたので、念願かなって、やれ嬉しや。南川潤の『生活の設計』が戦時下であったのに対して、高見順の『朝の波紋』は敗戦が人びとの生活に大きな影を落としているころの東京の勤労男女をとりまく物語。先日の南川潤とおんなじように、ひとたび読みだしてみると、期待どおりの「都会派風俗小説」の佳品で、読み心地すっきり。五所平之助の映画は原作どおりだった。いざ原作を読んでみると、池部良と高峰秀子の配役は実に見事だったなと、映画のよき思い出にもひたって(三浦光男のキャメラ!)、それもまた愉し、だった。

作家としての高見順が、さきに述べたように弱者の孤独の告白者として出発しながらも、今日のように大きい存在となったのは、その弱者の感傷に耽溺しきってしまえない知性と、多岐にわたる感受性を兼備しえたからであって、ここに今日、氏をたんにひとつの名称――たとえば転向文学者の一タイプという風な名で規定してしまえない複雑さがあるのだ。高見順は、そういう文学史上の慣用語で単純に規定してしまうには、あまりにも多くのハミだしたもろもろのものを所有している作家である。もちろん、それは高見順だけではないであろう。真に作家といいうる作家は、みな、そういう一つの名称の枠内に定着づけられるような、単純な存在ではない。
【十返肇「解説」- 高見順『朝の波紋』(角川文庫、昭和31年)】



昭和26年の『朝の波紋』とおなじ1950年代の新聞小説として、永井龍男『遠い横顔』(筑摩書房、昭和31年3月)。装釘:須田壽。昭和29年10月初版の新潮社版が新書サイズで筑摩書房より刊行されたもの。去年にささま書店で500円で買った本で、冒頭を立ち読みして(銀座のデパートのアドバルーン登場)、すぐに読みたくなった。1950年代の新聞小説、というのが本読みのたのしみのひとつで、安く売っていたり造本がよかったりすると、気まぐれにポロリと買ってしまうことが多い(いざ読んでみると結構ハズレもあるが)。日経の新聞小説だったという『遠い横顔』は、永井龍男のなかではあまり好きではなかったけれど、十返肇は「一九五四年の新聞小説」という文章で(『文壇風物誌』所収)、《マネキン会社に勤めていた女主人公が百貨店に勤めを変え、ものすごいデパート競争の渦中に立って活躍するという筋で、長篇として構成に、やや無理が感じられるが、部分的には作者の才気が閃いていて、一応成功したといえるのではあるまいか。》というふうに書いている。


戸板康二の命日(名づけて「洗亭忌」)には雪がよく似合う、と一日が終わって日没後、外に出てみると、雪は冷たい雨に変わっていた。傘をさして、銀座へゆく。小村雪岱の《春雨》のチラシがもう1枚欲しくなって、HOUSE OF SHISEIDO へゆくも、チラシは残っていなかった。



資生堂アートハウスの《版画の楽しみ 木版・銅板・リトグラフ》展(1月10日から3月30日)のチラシ。先月このチラシを入手したときは嬉しくって、以来、書斎(というほどのものでもないが)に飾って、悦に入っている。展覧会には行けそうもないけれども……。


小村雪岱の《春雨》は以前、東哉(http://www.to-sai.com/index.html)の店内でハッと目をこらしたことがあった、のを思い出して、いてもたってもいられず出かけてみる。傘をたたんで店内に入ったところ、以前見たのと違う雪岱が飾ってあった。ハッと目をこらす。雪うさぎを手に持って、女のひとが雪の上にしゃがんでいる。なんという美しさ……。1915年の卯年生まれでウサギの置物を集めるのをたのしみにしていた戸板康二の命日に見るのにいかにもふさわしい、と目がウルウルになる。こんな見事な瞬間はそうあるものではない。外に出てみると、雪から変わった雨はまだやみそうもなかった。




金曜日。早起きして、喫茶店で本を読む。今週はすっかり寄り道をしてしまった。本日より、野口冨士男自選小説全集』(河出書房新社、1991年7月)の下巻を、最初のページからじっくりと読み進めることとする。ジワジワと『風のない日々』を読み進める。