蒲田撮影所附近の明治製菓に思いを馳せ、鎌倉へ。桂文我を聴く。

午後、東海道線に揺られてトロトロと鎌倉へ向かう。その途中、蒲田駅で下車して東口に出て、傘をさして、しばし界隈を歩く。蒲田の東口は初めて。蒲田の東口といえば、かつて松竹の撮影所があった場所ということで、往時を偲ぶべく前々から界隈を歩いてみたいと思っていたのだけれども、本日の目的は撮影所ではなく、撮影所の人びとがしばし憩ったという「明治製菓」の跡地探索。蒲田撮影所附近の明治製菓については、

蒲田地区の発展、都市化は、松竹が撮影所を置くことが主要な契機となり、映画の繁栄とともに進行した。撮影所の存在が核となって、町にモダンな「都市」の要素が発生した。


その一つ、蒲田駅東口駅前の明治製菓喫茶部、またの名明治キャンデー・ストア。月村吉治(御園京平)編『蒲田撮影所とその附近』(私家版、一九七二年)に <大正も終りを告げ、昭和と改元されるころに、蒲田に初めて洋菓子とコーヒーなどを売る店が東口駅前に出現しました。二階建のコンクリート、瀟洒なモダンな店舗でした。四段位の石段をのぼるとドアを開けるウエイトレスや蝶ネクタイ姿のボーイがおり、撮影所の人達やインテリー階級が好んで利用しました> と記されている。


もちろん撮影所の食堂でもコーヒーは飲めたけれども、スターや監督や脚本部員は、打合せや暇つぶしにここを用いた。一九三一年に来日して蒲田撮影所を訪れたダグラス・フェアバンクスまで、ここのコーヒーを飲んでいった。それでは小津安二郎は―― <斎藤達雄と連れ立つて、よく此処へやつて来るのは小津安二郎であるが、小津監督もまた、斎藤達雄と同じやうに、紅茶党のひとりである事は有名な事実である> (「昼飯はいつもおいしい」――『蒲田』一九三二年五月号)。小津が一九三〇年に書いて都新聞に発表したコント『殺人綺談』の舞台がこの店であることは言うまでもない。<戦災でこの明治製菓もなくなりましたが入口の階段だけは終戦後も暫らくの間残されていました> (『蒲田撮影所とその附近』)。


【田中眞澄『小津安二郎周游』 asin:4163651705(文藝春秋、2003年7月)-「第三章 修業と遍歴のカットバック」より】

と、マサスミ先生が間然するところのない見事な文章を書いているのだった。さらにすばらしいのが、そのマサスミ先生編集のみすず書房の「大人の本棚」の『小津安二郎「東京物語」ほか』(asin:4622048221)で小津安二郎による蒲田の明治製菓を舞台にしたコント『殺人綺談』を読めるということ!


ついでに、蒲田撮影所近くの明治製菓は、尾崎秀樹編『プロデューサー人生 藤本真澄映画に賭ける』(東宝株式会社出版事業室、昭和56年12月)に掲載の、藤本真澄による回想録では、

内田誠の口から成瀬が松竹をやめてP・C・Lへ行くことを前もって知らされた私は、成瀬が城戸四郎への辞表を提出する日に蒲田へ行って撮影所わきの明治製菓の売店で待っていた。成瀬がやって来て「城戸所長は円満にやめることを認めてくれた」と、うれしそうに言った。祝盃を上げようということになったが、成瀬は金がないからツケのきくところへ行こうと私を撮影所裏の薄汚ない中華料理店・珍々軒へ連れて行った。成瀬が二十九歳、私が二十四歳だった。

というふうに登場している。昭和9年6月、成瀬巳喜男の松竹からP.C.L.への移籍という映画史の舞台として、蒲田の明治製菓は燦然と輝いているのであった。って、 当時明治製菓宣伝部にいた藤本真澄(昭和11年に P.C.L. へ転職)が成瀬巳喜男を待っていた、と、ただそれだけのことだけれど。


松竹キネマと戦前の明治製菓あれこれとを同時に好む身としては、蒲田の明治製菓には並々ならぬ関心がある。しかしながら、映画の側では度々目にする明治製菓だけれども、明治製菓側からみてみると、数種の社史をひもといてみても蒲田の売店に関しては一言も言及がなく、ちょいと肩すかしなのだった。マサスミ先生の文章に出てくる、月村吉治編『蒲田撮影所とその附近』(私家版、1972年3月発行)によると、「経営者と明治製菓株式会社とのタイアップ営業」だったとのことで、開店当初は森永製菓と提携していたものの両者の契約に不調があり、まもなく「森永」の文字が消され「明治」になったとのこと。直営店ではなかったらしい。


しかし、まあ、ブツクサ言わずに、上掲のマサスミ先生の素晴らしき文章を胸に、撮影所ありし頃の蒲田の明治製菓に思いを馳せようではないかと、雨のなか張り切って(鎌倉へ行くついでではあったが)、蒲田駅東口にやってきた。月村吉治編『蒲田撮影所とその附近』(私家版、1972年3月発行)からコピーした、「昭和十六年現在」の「東口商店街略図」を片手に、メラメラと明治製菓売店跡地はこのあたりかな、とめぼしをつけてみると、明治製菓売店があったと思われるところに今は「カメラのウエダ」なる商店があるのだけれど、「昭和十六年現在」の「東口商店街略図」を参照すると、角の明治製菓の隣りに「植田写真店」が並んでいる、「カメラのウエダ」の存在は、やや位置がずれつつも「植田写真店」の営業が今も続いているあかしとみて間違いはなかろう……云々と、明治製菓があったであろう場所にたちすくんで、しばし興奮だった。ここの商店街はチェーン店ふうのお店が立ち並ぶ、どこの町でも見かけるような、特になんということもないような並びなのだけれども、「カメラのウエダ」より先に歩を進めてみると、昭和16年では「田宮履物店」であった場所が現在も田宮という靴屋であったりして、ほんのかすかではあるけれども往時を偲ぶことができなくもない。行ってみるものだと思った。意外なほど、嬉しいひとときだった。




小津安二郎『学生ロマンス 若き日』(松竹蒲田・昭和4年)の一場面。斎藤達雄と松井潤子がいる喫茶店は、森永製菓の売店らしい。天井から鳥かごがぶらさがっている。



斎藤達雄のうしろに「森永のチョコレート」のポスター。



よく見てみると、コーヒーカップには「エンゼルマーク」。二階窓の下方には通行人の歩く姿も見える。ロケ地はどこだろう!



夕刻、大船で横須賀線に乗り換えて鎌倉に到着。雨はだいぶ小降りになっていた。まだだいぶ時間があるので、小町通りを歩いて、鶴岡八幡宮へゆくことにする。明治製菓戦前の PR 誌「スヰート」の昭和15年11月発行の「奉祝 紀元二千六百年」と銘打った号(表紙は小村雪岱、この菊の図案を戸板康二が受け取りに訪れた4日後の同年10月17日に雪岱は急逝している)に、鶴岡八幡宮の鳥居をくぐってすぐの太鼓橋のすぐ前の源平池のほとりに一対の燈籠があり、これは向かって左が大坂の、右が江戸の砂糖屋と回漕業者が奉献した燈籠であり、碑には文久二年と刻印がされていて、航路はるばる砂糖を積んで東西に往来した商人たちの安全祈願といった願いがこめられているのだという……といったようなことが書いてあって、この一対の燈籠は紀元2600年という記念の年に、明治製菓の創業者、相馬半治の尽力でもとの場所、つまり鶴岡八幡宮にもどされた(前はどこにあったかは忘れた)という記事があったので、思い出したら見に行ってみようと思っていたのだった。今日やっと思い出したので、やっと見ることができた。砂糖にちなむ燈籠は紀元2600年の「スヰート」のグラビアで見たとおりの姿で風雨にさらされていた。先の蒲田の明治製菓に引き続いて、見に来てみるものだなあと、そこはかとなく嬉しく、上機嫌になる。クルッと後ろをむくと、フクちゃんの絵が描いてある立て看板があって、その後ろに白木蓮の木があった。横山隆一の庭にあった木蓮が移植されたらしい。この木蓮の花が咲く頃、またここに来たいなと思った。


などと、ささやかながらも明治製菓の遺跡めぐり(のようなもの)を楽しむ休日の午後、ということで、小町通りを機嫌よく、もと来た道を歩く。今日は木犀堂がお休みで残念であった。気を取り直して芸林荘で文庫本を2冊購入。小町通りは観光客相手の商店ばかりかと思いきや、古くからのお店も幾分混じっていて、その観察がたのしい。何十年も前からあるに違いない牛乳屋さんの店内には「明治ミルク」のホーローの看板があって、いいなあと思う。と、ふわふわと駅に向かって歩いてゆく、その途上、お菓子屋の「江戸屋」の前にさしかかった。以前は特になんとも思っていなかったのに、突発的にガラガラと引き戸を開けて、お店の中へ。各メーカーのお菓子が並んでいる、ただそれだけの光景がなぜか嬉しい。お菓子の売っている光景をこれほどまでにじっくりと見るのはずいぶんひさしぶり。特に珍しくはないのだろうけども、「明治クリームキャラメル」や「明治ヨーグルトキャラメル」といったものがまだ売っていて(愛らしいパッケージ!)、なんだか懐かしい。「明治サイコロキャラメル」も売っている! これこそ戦前からのロングセラー。なんてチャーミング! あら、「明治ミルクチョコレートデラックス」ってまだ売っていたのね! などと、心のなかで「!」を連発してしばし興奮し、いろいろと迷ったあげく、明治製菓のお菓子、計5つ購入。帳場の後ろに店先の描いた古い絵がかかっているのが、とてもよかった。鎌倉に来たら、またここでキャラメルを買おうと思う。




明治製菓の戦後の PR 誌「スイート」(昭和32年9月20日発行、通巻24号)の裏表紙より、「明治ミルクチョコレートデラックス」の広告。亀倉雄策のパッケージデザインが好きだ。



豊島屋で「鳩サブレー」と「小鳩豆楽」を買ったあと、午後6時半開催の「かまくら落語会」を聴くべく、鎌倉生涯学習センターへ。前回の柳亭市馬独演会(id:foujita:20071110)から早くも2ヶ月がたって、新年最初の「かまくら落語会」は桂文我独演会なのだった。文我は今まで何度か独演会に出かけていて、そのたんびに心ゆくまで満喫している、もっとも好きな噺家のひとり。日頃からファンである「かまくら落語会」という場で聴くのは、前回行きそびれたので今回が初めてとなり、前々からとてもたのしみにしていた。今日は、まん我「寄り合い酒」、文我「替り目」、宗助「くしゃみ講釈」、文我「蜆売り」、文我「浮かれの屑より」の計5席。あっという間の3時間だった。無心で落語にひたった3時間。ああ、すばらしかった! 会が終わってどやどやと外に出る。後ろのご婦人二人が「浮かれの屑より」はたい平で聴いたことがあるけれどもそれとはだいぶ違っていて云々というようなことをホクホクとしゃべっているのを盗み聞きしつつ、駅に向かって、ツカツカと歩いた。雨はすっかりあがっていた。


「かまくら落語会」での上方落語のすばらしきひととき、というようなことを思うと、どうしても吉朝のことを思い出しもし、しばし感傷にひたったところで、横須賀線に乗りこむ。車内でスヤスヤと寝入ってしまい、目が覚めたら品川を出るところだった。今日の「かまくら落語会」行きに際して、早起きして岩本素白の余韻にひたって品川を大がかりに歩く、というコースを練って前々から悦に入っていたのだったけれども、あいにくの雨でそれは後日のおたのしみとなってしまった。と、その心の隙間を埋めるべく、蒲田の明治製菓跡地を見に行ったりした次第。結果的にはなかなかの佳日となった。いい一日だった。