今月の地下室の古書展で、昭和15年の「春泥」を3冊買った。

今月は、古本の買い物が充実していて、あちらこちらで散財してしまった。東京古書会館の地下室の古書展(http://underg.cocolog-nifty.com/)では、西秋書店が目録で昭和15年の「春泥」を3冊出していて、見つけてしまったら百年目という感じで、迷わず注文して、気もそぞろ。そして、古書展当日、なんとか無事に買うことができて、よかったよかったと、お会計のあとは「地下室の落語会」。落語の余韻を胸にテクテクと秋の夜道を歩いて帰宅、包装紙で梱包されたままの「春泥」を枕もとにおいて就寝、次の日の朝はいつもよりもさらに早起きしてイソイソと外出、喫茶店でコーヒーを飲んでひと息ついたところで、そおっと包みをひらいて、そぉっと「春泥」のページをひらいて、そぉっと1ページ1ページ繰って、このたび「春泥」を手にすることができたのはなんと幸福なことだろう! と胸はジーンとしっぱなしだった。


「春泥」という雑誌があった。春泥社発行、籾山書店発売。昭和5年3月創刊、昭和12年12月終刊、通巻89号。

 「春泥」は昭和五年三月に創刊された。二年前の久保田先生の新聞小説の「春泥」にちなんだのか。俳句はむろん重点的にのせているが、随筆や座談会もあり、じつにたのしい内容のものである。そのころは麻布の網代町にあった坂倉家が発行所として奥付に記され、春泥社と称している。
 創刊号から、表紙の絵を小村雪岱独特の絵でかざったが、本文はラシャ紙で毎号八十頁、それが二十五銭というのだから、これはもう破格の安さである。
 創刊号の口絵として、和紙を三つ折にし、芥川龍之介が傘の絵に自賛した、
 し ぐ る る や 堀 江 の 茶 屋 に 客 ひ と り
の凸版がはさみこまれている。
 これは死ぬ昭和二年の四月五日の夜、久保田家を訪ねた芥川がざれ書きのようにして置いて行ったものだという解説を、久保田万太郎先生が「かたみ」という文章にして巻頭に書いている。


【戸板康二「いとう句会」 - 『句会で会った人』(富士見書房、昭和62年)より】

と、この「春泥」は国会図書館や日本近代文学館にまとまって所蔵されているので、折に触れ閲覧したことがあった。ここに戸板さんが記している芥川による傘の絵のある「春泥」創刊号は、小村雪岱によるぜいたくな表紙とあいまって、それはそれはもう、ため息ができるような美しさ。


今月、地下室の古書展で入手した3冊の「春泥」は昭和15年6月に復刊された(「日本近代文学大事典」には、「春泥」は昭和12年に大場白水郎の出していた「春蘭」に合併し昭和15年に「春蘭」の休刊を受けて復活、とある)、第1号(昭和15年6月15日発行)、第2号(昭和15年8月30日発行)、第3号(昭和15年10月30日発行)の3冊。奥付には、「編集兼発行人」として坂倉金一、住所は「東京市渋谷区大和田町九十三番地」となっていて、これは「いとう句会」の名称の由来となった「いとう旅館」のあった場所。


戸板康二は、上記の『句会で会った人』の「いとう句会」の項で、

休刊のままでいた「春泥」を最後に一冊出したのは、昭和十五年十月に急逝した小村さんの追悼号として作ったもので、すでに用紙事情の悪い時に厚手のアート紙に原色版で故人の絵を刷ったもので、これは当時明治製菓にいた私が編集した。

というふうに書いている。ここに戸板さんが記す雪岱追悼号の「春泥」は昭和15年12月発行の第4号で、今回入手した第1号から第3号のあとに続く、「春泥」の最後の一冊。昭和15年の「春泥」はいとう句会の雑誌であると同時に、『句会で会った人』にある「大森の良夜会」、すなわち内田誠邸での句会をも含んでいる雑誌だった。いとう句会の雑誌としては、敗戦後まもなく「雑談」が全7冊刊行されている(id:foujita:20060809)。


もう何年も前に、「風景」のバックナンバーのこのくだりを見て以来、雪岱追悼の「春泥」は長年の夢なのだった。いつの日か、入手とはいわないから閲覧だけでもできるといいなと思っている。

ぼくも後年多少関係したことがあるのですが、よく知っているのは「春泥」という雑誌ですよ。これは久保田万太郎とその周囲のいとう句会を作るメンバーが主体となってやったのです。明治製菓の宣伝部長だった内田水中亭がパトロンでね、表紙が鳥の子に小村雪岱さんの画を毎号新しく出して、口絵に木村荘八だの、山本鼎なんかの絵を入れて、毎号いい座談会を百尺とかああいうところでやってね、金に糸目をつけない雑誌だった。


昭和14年から、ぼくは内田水中亭のところで、それこそリトル・マガジンの「スヰート」という雑誌を編集していたことがありましてね、「スヰート」は明治製菓の宣伝誌だったから、ぼくが月給をもらうためのオフィシャルなものだけど、それと並行して、「春泥」の編集も堂々と手伝ったことがある。


これはいま古本屋でたいへん高くなっているのは、小村雪岱さんがなくなったときに、「春泥」で小村雪岱追悼号というのを出した。昭和15年になくなって、16年に出しているのですが、もう世の中非常に悪くなっているときに、光村原色版印刷にある、とっておきのアートを無理に引っぱり出して、全アートの追悼号を出したのです。それに小村さんのいろんな絵を原色版で入れて、当時よく怒られなかったものだと思いますね。



【対談「リトル・マガジンについて」戸板康二&巌谷大四 - 「風景」昭和46年2月号】


しかし、今回入手した、昭和15年の「春泥」第1号の編集後記的なところで、大場白水郎が

「春泥」の編輯は「三田文学」の若き劇学徒の戸板康二君が案を建てられるので、時局柄の紙質の悪さ位は吹消すやうな新しい感じのものが出るであろう。

と書いているのを見ただけでも、もう十分すぎるくらい。昭和15年の「春泥」全4冊は、明治製菓宣伝部内で内田誠のもとで戸板康二が編集雑務にあたった雑誌だった。いわば、昭和15年の「春泥」は「裏スヰート」ともいえるわけで、戦前の明治製菓宣伝部あれこれを追っている最中の身にとっては、こんなに嬉しい買い物はそうあるものではなかった。





昭和15年の「春泥」は三冊とも同じ表紙で、宮田重雄によるもの。





上の「春泥」と同年の昭和15年の、明治製菓宣伝部の部長内田誠と部下戸板康二の表の仕事、「スヰート」のうちの一冊、第十五巻第四号(昭和15年8月20日発行)の表紙も宮田重雄! 



昭和15年最後の「いとう句会」は12月9日。

 この日私は、「昨日消えた男」という、マキノ正博東宝入社第一回作品の“御白洲場”に出演している。当日、ズラリと並んだ俳優の顔ぶれがダイヘンだ。長谷川一夫、山田五十鈴、高峰秀子、江川宇礼雄、清川虹子、進藤英太郎、鳥羽陽之助、清川荘司、坂東橘之助、鬼頭善一郎、川田義雄、渡辺篤、サトウロクロウ、これだけが一遍に出る。私の役は老いたる浪人武士、殺人の容疑者としてお白洲に平伏する役である。
 顔をおとして、撮影所前の飯屋で、焼きとりを肴に冷酒をあおり、バスに乗って渋谷に出て句会に出席した。
 この三日前に、例の情報局なるものが開設されたのである。


【徳川夢声『夢諦軒句日誌二十年』(オリオン社、昭和27年8月)より】