《福原信三と美術と資生堂》展の余波でふらふらして、彼岸入り。

日没後、イソイソと HOUSE OF SHISEIDO へ出かける。《スクリーンのなかの銀座》展の初日なのだけれども、今日も一番のお目当てはライブラリー(このところ展示替えで閉館していてムズムズしていた)、ちょいなと本を繰っているうちに時間がなくなってしまって、今日も展覧会はまたのおたのしみということになってしまった。ちらりと様子を見たところではどうというようなこともないような感じだったけれど、資生堂のPR 映画『銀座ラプソディ』(昭和33年、制作:松竹、監督:井上和男、特別出演:佐田啓二、29分)の上映があるのは驚き! 資生堂の社史でのみその名を知っていた謎の PR 映画、なにがなんでも見逃せない! と、これだけでも大興奮なのだった。上映スケジュールの紙をちょうだいして手帳にはさんだところで(いかにも見逃しそうだけど。定員24名って…。)、外に出る。




先週届いた本。《銀座モダンと都市意匠》展図録(資生堂企業文化部、1993年3月)。表紙は、《旧資生堂ギャラリーの階段の手摺/設計 前田健二郎(昭和3年)》とのこと。この本は以前、京橋図書館の地域資料室で借り出して、大感激のあまり、返却期限後も往生際悪く手元においてスミからスミまでランランと熟読玩味したものだった。やっと(安く)入手できて嬉しいなア! と大いによろこぶ。《銀座モダンと都市意匠》は1993年の3月から4月にかけて、資生堂ギャラリーとザ・ギンザアートスペースにて催された展覧会。現物を見たかった! としみじみ感じ入ってしまうような図録が部屋の本棚に並ぶ瞬間はいつだって格別。



と、念願の図録を入手してあらためてじっくり眺めたあとでふと思ったことは、ああ、そうか、先日見物した世田谷美術館の《福原信三と美術と資生堂》展にて、物足りなさのようなものがどうしてもぬぐいきれなかったのは、《銀座モダンと都市意匠》的なものをもっと体感したかったと一人で勝手に期待していたからなのかな、ということ。つまり、「銀座のモダニズム」、「都市の視線」というようなものを考えるうえでの新たな視点を欲していたのだったと一人合点した。勝手な思いこみではあるけれども。


と言いつつも、今月初めの《福原信三と美術と資生堂》展の余波はかなり大きいものがあって、福原信三の名を冠した展覧会なのだから当然といえば当然なのだけれども、日本写真史への思いが今まで以上に盛り上がってしまって、世田谷美術館以来、二週にわたって週末のひととき、ビール工場跡地の一角にある東京都写真美術館(館長は福原義春)へトコトコと出かけては図書室で読みものおよび調べものにいそしんでいるのだった。愉しき哉。たとえば、伊奈信男『写真昭和五十年史』(朝日新聞社、昭和53年)というような本の最初の一章が「絵画模倣から芸術写真へ 福原信三『光と其諧調』のころ」であるように、《福原信三と美術と資生堂》展を機にあらためて戦前の日本写真史あれこれに心ときめかしているうちに、いつのまにか、「銀座のモダニズム」、「都市の視線」といったようなもので心はいっぱいなのだった。




野島康三《女》昭和8年。《福原信三と美術と資生堂》展で何点か見ることができた野島康三の写真は、資生堂ギャラリーにおける、昭和7年と8年に開催の「日本写真会同人作品展覧会」での展示品。と、ここでひらめくのは、昭和7年と8年といえば、そのまんま「光画」の時代だということ。「光画」の創刊は昭和7年5月で、休刊は翌年7月。ワオ! と思って、飯沢耕太郎『写真に帰れ 「光画」の時代』(平凡社、1988年)をひもといてみると、「光画」のパトロン、野島康三は毎号《女》と題した連作を発表していて、この写真もそもそもの初出は「光画」なのだった(昭和8年7月)。飯沢耕太郎の『写真に帰れ 「光画」の時代』はすばらしい本。このなかで著者は、吉行エイスケの『ラグビー娘夜話』(1931年)を引用したあとで、野島康三の《女》について、《“室内”という装置に閉じ込められることで、女たちはまさに「肉体の香り」そのものと化す。もっと正確にいえば、彼女たちはエロティックな匂いを発散するオブジェとなって、写真家(あるいは小説家)によって“室内”の空間に配置されるのである。》と書いている。




こちらは、森永製菓のポスター(昭和12年)。原節子を撮影した写真は一度見たら忘れられないような鮮烈さで、『森永製菓五十五年史』(昭和29年発行)にも大きく紹介されているおなじみのポスター。撮影者が堀野正雄だということを知ったときはずいぶん胸が躍ったものだった。またもや飯沢耕太郎の本だけれども、『都市の視線 日本の写真 1920-30年代』平凡社ライブラリー(asin:4582765556)を読んで以来、ずっと心に残っていた写真家だったから。堀野正雄といえば、「彷書月刊」2007年3月号《特集:板垣鷹穂の照準儀》もとても刺激的で、熱が再燃していたところ。




桑原甲子雄『東京昭和十一年』(晶文社、昭和49年)より、森永キャンデーストア2階の堀野正雄制作の写真壁画。堀野正雄は、森永製菓宣伝部の嘱託カメラマンでもあった。師岡宏次『銀座写真文化史』(朝日ソノラマ、昭和55年)に、昭和10年12月に銀座5丁目西側に新築開業された森永キャンデー・ストアは《木造二階建てで、二階に上がる階段が大きく、その部分だけ天井にぬけていて、広い壁面を作っていた。その壁面に高さ約三メートル(九尺)、横幅四・五メートル(十三尺五寸)の写真壁画が飾られ、私たちの目を驚かせた。こういう場所に飾られた写真壁画としては、日本で最初のものであろう。この図柄は、当時日本に来ていたスペインの舞姫デルリオをモデルに撮影したもので、五枚の写真をモンタージュして構成されたものである。この時代は海外の影響もあって、フォト・モンタージュが、一つの写真表現手法として、高く評価されていたこともあって、こういう図柄が選定されたのであろう。新しい写真の運動は、いつも、こうして銀座から広まっていく。》とある。



《新しい写真の運動は、いつも、こうして銀座から広まっていく。》という師岡宏次は、『銀座写真文化史』で「資生堂ギャラリーと日本写真会」という一節を設けて、上の野島康三の写真が展示された日本写真会の同人展のことにももちろん言及しているわけで、話はやっぱり資生堂にもどるのだった。そして、銀座西五丁目に森永製菓のキャンデーストアがあった一方で、銀座東三丁目には明治製菓売店がそびえたっていた(大正13年3月に明治製菓売店一号店として開業、昭和8年2月に新築)。そんな、森永キャンデーストアと明治製菓売店が同時存在していた頃の、戦前銀座のあれこれにいつまでも興味津々なのだった。1930年代東京。



飯沢耕太郎著『都市の視線』の「堀野正雄」の項で、1938年発行の堀野正雄『女性美の写し方』(新潮社)について(上の原節子の写真ももちろん収録されている)、《この写真集は主に彼の婦人雑誌での仕事をまとめたものであるが、ほぼ同時期に出版された福田勝治の『女の写し方』(アルス社、一九三七年)、『続女の写し方』(同、一九三九年)とともに、日本のモード写真の草分けといってもいいものだった。それまでのモード写真は、着せ替え人形のようなモデルにポーズをつけただけのものが多かったが、この頃から小型カメラのスナップショットの方法を生かして、いきいきした表情や身振りの瞬間をとらえた写真が登場してくる。》と書いている。と、そんな堀野正雄と福田勝治の活躍ぶりがいかにもな1930年代というものをもっと追ってゆきたいのだった。そして、商業写真が本格化した1930年代を考えることで、目下最大の関心事、明治製菓の PR 誌「スヰート」をもっと深く掘り下げてゆく手がかりをつかめたらいいなと思う。

ああ、そこにあるのは、なんと明るい写真ばかりであることか! 自然光の下で撮られたものも、人造光の下で撮られたものも、それらはすべて明るい。また、その明るさの中にいる女性たちの、モダンで、粋で、健康なことはどうであろう。彼女らは現代の女性たちよりも、ずっとずっと新しくさえあるではないか。


馬に乗った白い水着の女。七月の朝の渚を、まぶしげに手をかざしながら歩いてくる胸と腰の逞しい女。同じモデルの、のびのびと横たわった体に組み敷かれてしまった砂の上のビーチ・パラソル。「風」という写真の中で、「く」の字になってスカートを抑えている顔の見えない女の、絹のストッキングと白いハイヒールの靴。一九三〇年代の、これらのモデルの肉体や、街や並木路や、芝生や海岸にふり注いでいた日光が、いま四十年後の私たちの頭上にある、あの太陽と同じ太陽から送られていたというのは、まことに不思議である。太陽の光ばかりではない。後姿を見せて立った着物の女が眺めているのは、たしかに今と同じ隅田川である。しかしその隅田川が、当時はこういう感じの川だったのかと思うと、これもまた不思議でならない。これらの「女」たちが、ごく自然に立ったり歩いたり座っていたりするこの町が、かつての日本に実在したというのは、本当なのであろうか。


【三國一朗「福田勝治」-『肩書きのない名刺2』(自由現代社、昭和58年)より】


そして、やっぱり、話は資生堂にもどって……。



『日本の化粧文化 化粧と美意識』(資生堂企業文化部、2007年2月発行)。ここに収録されている海野弘「女性都市東京」という文章に、P.C.L. 第2回作品の明治製菓タイアップ映画『純情の都』のことが出てくる! と、ありがたくもある方よりちょうだいした本(海野さんのタイトルは『純情の都』の元タイトル『恋愛都市東京』とかけている)。「女性都市東京」という切り口で、1930年代と1950年代のそれぞれの東京とその女性たちの姿を語る。と、資生堂企業文化部発行の媒体で読むのが、いかにもな海野弘の文章に心は躍りまくりだった。