資生堂化粧品部の『銀座』は思っていた以上にすばらしい本だった。

週明け早々、朝から京橋図書館のことで頭がいっぱい。日没後、マロニエ通りをわーいわーいと築地方面へ早歩き。京橋図書館にかけこんで、本を返してまた借りて、大急ぎで帰宅。夕食の支度もソコソコに借りてきた本を眺める。


戸板康二の「銀座の書割」で知った、三須裕編『銀座』(資生堂化粧品部、大正10年10月)という書物、長年ぼんやりと憧れていただけだったのだけれど、先日「コレクションモダン都市文化」を機に急に気持ちが盛り上がって、メラメラと探索に着手してみると、当然京橋図書館の地域資料室は原本を所蔵しているのだけれど(3冊も!)、よくよく見てみると、資生堂化粧品部の『銀座』は大空社の《文学地誌「東京」叢書》なるシリーズで翻刻されていたのだった。中央区の図書館では所蔵はもちろん、こちらは貸出しも可能だ。先日の「コレクションモダン都市文化」の『グルメ案内記』とおんなじように、長らく憧れの稀覯書をピカピカの紙面で親切な解説とともに部屋でじっくりと繰ることができるなんて! ……というような次第で、夕食の準備もソコソコに借りたばかりの、文学地誌「東京」叢書第8巻(大空社、1992年)、三須裕編『銀座』をランランと繰って、うっとりのしどおし。資生堂化粧品部の『銀座』は思っていた以上に、すばらしい本だった。


槌田満文の解説によると、大正10年に交通量増加のため銀座通りの拡張工事が行われた際、銀座市民の反対もむなしく柳並木が伐採され新たに銀杏が植えられ、銀座の町並みは大きな変化に直面することとなり、この改修工事を機に銀座の歴史を記録したいと考えたのが資生堂二代目の福原信三。資生堂化粧品部より三須裕編『銀座』が刊行されたのは大正10年10月、銀座通りの改修工事は同年1月に始まり12月に完了しているので、資生堂の『銀座』はまさに銀座通り改修のまっただなかで出来上がった書物なのだった。巻末に、当時資生堂に在籍していた小村雪岱による《銀座街概観 京橋より新橋に至る銀座通りの図 大正十年八月》と題された町並見取図がある。2年後に震災で消えることになる煉瓦街の景観が雪岱によって美しく記録され、奇しくも大変貴重な資料が残るということになった。槌田氏によると、木村荘八編著『銀座界隈』(東峰書房、昭和29年6月)という本に別冊として、雪岱の町並見取図をヒントに当時の大通りを写真で示した折本が付されているとのこと。大正の資生堂の『銀座』と合わせてこの本のことも戸板康二の「銀座の書割」でチラリと紹介されていた。

大正十年に資生堂が出版した「銀座」という私家版には、その頃資生堂にいた小村雪岱画伯が、同年八月現在の、京橋から新橋までの銀座通両側の町並見取図を描いている。近年の「銀座界隈」にのった見取図あるいは「銀座百点」に毎号出ている俯瞰図と比べてみると、この町の上に流れた三十余年の歳月が今更のように思われる。


小村画伯はこの「銀座」の出る前後に隅田川両岸図というものを、当時の婦人雑誌「新家庭」に掲げた。僕は芝居の大道具の言葉を借りて、隅田川の遠見、銀座の書割とでもいいたい、この二つの労作に、貴重な資料としての大きな価値を認めたいのである。


【戸板康二「銀座の書割」(「銀座百点」昭和30年7月号)‐『ハンカチの鼠』所収】

と、そもそもの発端、戸板康二「銀座百点」初登場の一文へと戻ってゆく。木村荘八編著『銀座界隈』の別冊「銀座八丁」も近いうちにぜひとも見たい!


戸板さんがチラリと雪岱による町並見取図のことを教えてくれたおかげで、「まあ!」とそれだけで資生堂の『銀座』に長年憧れていたわけだったけれど、いざ手にしてみると、町並見取図だけでなく、『銀座』のところどころで雪岱は、数えてみたら全部で7枚の挿絵を描いている。資生堂の一図案部員として携わっている「小村雪岱」の名前はこの書物にはクレジットされてはいないのだけれど、絵そのものがもう雪岱以外の何モノでもない代物で、「まあ!」といつまでも嬉しい驚きで胸がいっぱいだった。まず、口絵はどこかのお店の軒先、道路の煉瓦と柳の枝とがさりげなく美しいデザインになっていて、しょっぱなから雪岱はどこまでも雪岱だなあとにっこり、待ちきれずに本文に目を通す前に挿絵を先に探してしまって、どんどんページを繰ってゆくと、いかにも雪岱という挿絵を続けて見ることになって、たとえば、路上に着物のご婦人がいる、町中の余白と着物の模様。雨中の橋を傘をさして通りすぎる人たち。ここは尾張町の交差点? 市電の線路と柳の遠景、服部時計店のディスプレイが素敵。窓辺の女子がビルヂングから銀座を眺望、着物の縞といった線がすばらしい。……とかなんとか、雪岱の挿絵にいつまでも見とれて、初めて雪岱を知ったころのむやみやたらに嬉しかったあの感覚がよみがえってきてウルウルだった。



資生堂化粧品部の『銀座』、奥付直前で見ることになる、最後の挿絵がこちら。資生堂の角に立つステッキ片手の紳士の視線の先にあるのは、辰野金吾設計の資生堂化粧品部?


とかなんとか、雪岱目当てで借り出した資生堂化粧品部の『銀座』だったけれども、銀座に関する資料としてこしらえたこの本、文章を寄せている人びとがたいへん豪華で、言うなれば日本の近代文化そのものというような顔ぶれ、日頃の本読みで心ときめかしている人びとが次々に登場して、え! この人も! と驚きっぱなしだった。そもそものお目当ての雪岱はもちろんのこと、数々の文章でも胸が躍ってしかたがなかった。林若樹、久保田米斎、淡島寒月、馬場孤蝶、上司小剣、南部修太郎、松崎天民……などなど、嬉しい名前を挙げていたらキリがない。それぞれがそれぞれの立場でもって、銀座の今と昔を綴っている。その合間合間に雪岱の絵を見ることになるこの本、与謝野鉄幹と晶子の短歌の隣のページは全体に黒がかった挿絵、銀座の夜店とビルのなかの女の人と路上のタクシー、そして空には満月。


一番嬉しかったのが、資生堂に勤めていたこともある水木京太によるコント風の洒落た一文。大正8年に三田の文科を出た水木京太は、卒業まなしは同窓の福原路草(信辰)にさそわれて資生堂の嘱託となり、『銀座』が刊行された大正10年当時は「三田文学」の編集長をしている(大正9年から13年まで)。そんな大学出たての水木京太による「銀座にて」というコントは、4年前に大学を卒業して一方は東京の会社員、もう一方は帰郷して田舎の若隠居をしている同窓生同士、竹さんと六さんがひさびさに再会して「銀ぶら」に興じるというもの。新橋から京橋に向かって、博品館、カフェーナショナル、資生堂の前を通って、信盛堂でネクタイを買って、カフェー・ユウロップでコーヒーを飲みながらおしゃべり。《君も気がついたろうが銀座はカフェーと唐物屋の町だね。洋服浮浪人がシャツを買ったお釣でビールを飲むか、ビール代の余りでシャツを買うか。いずれにしても、彼等の二重生活のために供えられた町だ。銀座を贅沢町のようにいうのは間違いだ。僕等にはどっちの意味でも生活の必需品を供給してくれる町なんだよ。》、《そういわれるとそのような気もする。夜店を歩いている人達を見ると、真実に暇つぶしの散歩をしてるとは思われないようだ。ただ賑かだとばかり思っていたのが、少し陰気臭くも見えて来たよ。》、《僕の仲間さ。三界に定住の家なく銀座を魂の休み場にしている連中さ。カフェーで会えば皆顔に見覚えがあろうって人たちだ。》


二人のこんな感じのおしゃべりがなんだかとってもいいのだった。モダン都市東京、小津安二郎の戦前サイレントを見ているような気分。二人の道筋を、雪岱の町並見取図を参照しつつ読み返してみると、当時の銀座の都市風俗のようなものをヴィヴィッドに感じるような気がする。この二人のおしゃべり、水木京太や三宅周太郎、久保田万太郎、南部修太郎、そして福原路草、いかにも「大正の三田」という雰囲気。そうそう、南部修太郎はこの本に「銀座と私」と題する文章を寄せて、十年前に三田の文科に入りたての頃に有楽座の帰りにパウリスタで長居、というようないかにもなことを書いていた。大正文士の時代というようなものにあらためて心ときめくのだった。大正10年に伐採されてしまった銀座の柳が復活するのは昭和7年、ちょうど戸板康二が三田に入学した頃。



……とかなんとか、資生堂化粧品部の『銀座』があまりにすばらしいので、興奮のあまりつい長々と書き連ねてしまったのだけれども、翻刻してくれて大感謝ということで、《文学地誌「東京」叢書》のほかのラインナップが気になったので、メモ。はしがきに、《激しい変容を重ねてきた過程をつぶさに知るには、文学者やジャーナリストたちがその時々に記録した繁昌記・印象記などの文学地誌に拠るほかはないだろう。》とあった。


文学地誌「東京」叢書全12巻(大空社、1992年)

  1. 服部誠一著『東京新繁昌記』 初編〜6編、後編(明治7〜14年刊)の合本複製
  2. 伊藤銀月著『最新東京繁昌記』(内外出版協会、明治38年刊)
  3. 大町桂月著『東京遊行記』(大倉書店、明治39年)
  4. 児玉花外著『東京印象記』(金尾文淵堂、明治44年)
  5. 若月紫蘭著『東京年中行事 上の巻』(春陽堂、明治44年)→東洋文庫(朝倉治彦校注)ISBN:4582801064
  6. 若月紫蘭著『東京年中行事 下の巻』(春陽堂、明治44年)→東洋文庫(朝倉治彦校注)ISBN:4582801218
  7. 山口孤剣著『東都新繁昌記』(京華堂書店 、大正7年)
  8. 三須裕編『銀座』(資生堂化粧品部、大正10年)
  9. 河井酔茗著『東京近郊めぐり』(博文館、大正11年)
  10. 東京日日新聞社編『大東京繁昌記 下町篇』(春秋社、昭和3年)→平凡社ライブラリーISBN:4582762735
  11. 東京日日新聞社編『大東京繁昌記 山手篇』(春秋社、昭和3年)→平凡社ライブラリーISBN:4582762867
  12. 安藤更生著『銀座細見』(春陽堂、昭和6年)→中公文庫で1977年刊