読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

早起きをしてマタイを聴き、『警視庁物語』で古き映画青年を思う。

朝。張り切って早起きをして、早々に外出。iPod で《マタイ受難曲》の第一部を聴きながらズンズンと歩を進める。途中、通りがかりの本屋でしばし立ち読みをしたおかげで、今日は最後のコラールが終わろうとするところでタイミングよく目的地に到着。まだまだ時間があったので、喫茶店でコーヒーを飲んで、ひと休み。礒山雅『マタイ受難曲』(東京書籍、1994年)をペラペラと読み返し、今日聴いたところのおさらいをする。「バッハの表現は、楽譜の形から、ほとんど見てとることができる。」という。第6曲のアルトの「悔悛と悔恨が」のアリアのところで、著者は《形を模倣することがそれ自体でどれほど感動的な効果をもたらすか、別の言葉で言えば、修辞学的な作曲技法の可能性をバッハがどれほど内面的に突き詰めたか……》という実例を示していたりする。そういうのをじっくりと読むのがなぜだか今の気分にぴったりなのだった。と、機嫌よくフムフムと繰って、時間になる。


夜。東映のシリーズ映画『警視庁物語』の DVD が早くも残り2本になってしまった。早くも飽きつつあるので、とっとと見てしまおうと、今日は村山新治『警視庁物語 上野発五時三十五分』(昭和32年)というのを見ることにする。タイトルバックの時点で、おっ、今回の犯人は多々良純だと察知して、よろこぶ。冒頭でズドンと容赦なくピストルで人が殺され金品が盗まれるのがいつものパターンなのであったが、今回はオートレース場(だったかな)の群集のなかで大穴を当てた人が容赦なく殺されるという出だしで、いつもながらにロケ地を眺めるだけでもなかなかたのしく、いつもながらに昭和の風物いろいろがたのしい。で、いつものような展開で犯人に迫ってゆく警視庁の面々、鑑識課がいつも大活躍、といった展開を淡々と眺めているうちに残り時間が10分くらいになり、いよいよ追い詰められる犯人。いつものように往生際悪くいつまでも逃げようとする多々良純、追いかける警視庁の人々といった場面になった。多々良純が走る走る、の舞台は上野公園。その移動のサマが絶好の「銀幕の東京」になっている。『警視庁物語』の見せ場は犯人が逃げるときの無駄に長い映像にあるのかも。途中、線路の上の鉄橋を逃げ、ボワッと黒い蒸気が湧き上がる。マルセル・カルネの『ジェニイの家』みたいだ。小沼丹の短篇(だったかな)でもそんな一節があったなあ。ラストは多々良純と一緒に高飛びすべく「上野発五時三十五分」の座席で待つ情婦(「レコ」)、人の気配で車窓から隣の空席に目を転ずると、そこいるのは手錠を持った刑事、ジ・エンドというふうな、なんだか微笑ましいようなしゃれた演出。1920年代から30年代の映画青年が大人になって映画界に入って、こんな添え物の小さな娯楽映画を作っているわけだけど、ちょっとしたところで遊んでいる、というふうに勝手に想像して、いいな、いいなと思った。