『ジェイン・エア』を読み、京橋図書館へゆき、ディケンズを思う。

早起きして、喫茶店へゆく。『ブロンテ全集』第2巻(みすず書房)を取り出し、シャーロット・ブロンテ/小池滋訳『ジェイン・エア』を読み続ける。ヒロインの卓越した現実感覚とハードボイルドさと、舞台装置のどこか現実離れしたゴシック的雰囲気との調和具合にひたすら酔いしれる。武藤康史が網野菊のことを「不幸な話を書いてもなかなかハードボイルト」と書いていたことをふと思い出す。同時に、前々から探している、網野菊が戦前に翻訳したギャスケルのブロンテ伝のことを思い出す。『ジェイン・エア』の次は、エミリーの『嵐が丘』を十数年ぶりに再読し、そのあと読み損ねているギャスケルのブロンテ伝に取りかかろう、いずれもみすず書房の『ブロンテ全集』で読むとしよう、というようなことを、『ジェイン・エア』をキリのよいところまで読んだあと、巻末の書名一覧を見て思って、心を躍らせる。


夕刻、マロニエ通りをゆく。西村賢太目当てに予約していた「新潮」の先月号が借りられるというので、よろこびいさんで京橋図書館まで早歩き。本を返してまた何冊か借りて、イソイソと近くのコーヒーショップ、タリーズにかけこんで、まずは「新潮」掲載の西村賢太『暗渠の宿』を読む。そこに繰り広げられる西村賢太的世界というか文体に、さっそくヒクヒク。主人公が突如『根津権現裏』評について講釈をたれるところ、最高! なかばギャグとして読んでしまっている感もあるけど、しみじみおもしろいわ! と、しばしはしゃぐ。とりわけ、上野動物園にクマを見に行くまでの過程がすばらしかった。ここを読んだだけでも、この小説を読む価値はありすぎるほどであった。

と、ひととおりヒクヒクしたあとは、心穏やかに『中野好夫集』第6巻(筑摩書房)を繰り、『英文学夜ばなし』を拾い読み。初出は丸善の「学鐙」なのだそうで、福原麟太郎をはじめとする「学鐙がいかにも似つかわしい文人の系譜」にあらためてうっとり。18世紀イギリス文学の感傷と諷刺、サミュエル・リチャードソンとヘンリー・フィールディングはそれぞれ、19世紀においてはディケンズとサッカレーに受け継がれた、というようなことが書いてあるのを見て、胸のうちにはふつふつと「サッカレー讃!」となり、うれしい。と、同時に、本来は苦手であるはずの感傷べったりのディケンズのすばらしい読み心地はいったいどうしたことだろうと思って、これまた嬉しい。


あとはもう寝るだけというひととき、モーム『世界の十大小説』(岩波文庫)の『トム・ジョウンズ』の項を読み返す。

それから、ふと思い出して、辻邦生と水村美苗の往復書簡『手紙、栞を添えて』(朝日新聞社、1998年)を取り出す。水村美苗が、イギリスの舞台女優がディケンズを吹き込んだカセットテープを買って、

《はじめはエプロンの紐にウォークマンをはさみ、洗濯機を回したり台所に立ったりしながら聞いていたのが、じきに何事も手につかなくなり、しまいにはベッドに寝ころび、ほうっと虚空をにらんで聞くしまつです。》

と書いているのを見て、「真似したい……」と思う。まさしくおっしゃる通り、その欠点などどうでもよくなってしまうディケンズの《もう、もう、どうでもよくなってしまうような面白さ》とはいったいどうしたことだろうと思う。