雨のなか、「一冊の本」と「月刊日本橋」を入手する。

朝から雨降り。のんびり家事を済ませ、ギリギリの時間に外出。昼休み、本屋さんへ。「一冊の本」と「波」を入手。雨のなか来た甲斐があったわいと、シメシメとコーヒーショップへ移動。今度出る「新潮」にチェーホフの未発表初期短篇が載るらしいと「波」を早々に切り上げたあと、「一冊の本」を繰る。四方田犬彦の連載「音楽のアマチュア」がバッハでワオ! となる。

四方田犬彦の音楽、特にバッハに関する文章はいつも大好きで、四方田犬彦の本はあらかた売り払ってしまったけど、晶文社刊の『心ときめかす』はバッハの無伴奏チェロに関する一文に今でも愛着たっぷりで、まだ売らずにわが書棚に残っている。この「音楽のアマチュア」も単行本化のあかつきには、またバッハ目当てに買ってしまいそう。《インヴェンションとシンフォニア》を聴きたくてたまらなくなった昼休み。いや、実際に聴かなくとも、頭のなかで鳴らしただけで気分上々で嬉しかった。

 『インヴェンションとシンフォニア』は、巨大な伽藍のような構成をもった曲集ではけっしてない。一見したところ、誰もが簡単に接近できるような平易さを湛えた作品である。だがその湖の水面を思わせる平易さをしばらく覗きこんでいると、思いがけない深淵が控えていることがわかる。最初にそれが感じられるのが、第8番の軽快な主題の展開が終わり、第9番に移るときである。とりわけ2声部から3声部に移動するさいに、予想もしなかった昏い世界へと下降してゆく気持ちになってくる。個人の感傷や幸不幸を越えて、どこともつかない向こう側の世界から強い力が働き、知らずとそちらへ牽引されてゆく自分に気づくことになる。いや、もはや牽引されているのはわたしではない。わたしの内側にありながら、わたしという人称を越えた者が静かに階段を降りていきつつあるのだ。
 10番にいたったとき、この深遠なる感情はたちどころに霧散してしまう。8番同様に陽気で、何匹もの子犬が戯れるかのような曲想のフーガが演じられる。つい今しがたまで耳にしていたのは、あれはいったい何であったのか。偶然に垣間見る死の世界とはひょっとしてあのようなものであったかもしれないと、高校生のわたしはノオトに書き付けている。おそらくこの世の全音ピアノ教本初級課題第2過程のために義務として体験する子供にしたところで、第9番にさしかかったときに何か、これまで予想もつかなかった異界から力が作動しているという事実に気づくことになるだろう。ピタゴラスの定理がどんな小学生にも職業的数学者にも平等に、その機能を披露するように、バッハはどのような初心者にも、人間を越えた力と構造とを垣間見させてくれるのだ。
(四方田犬彦「音楽のアマチュア」第5回-「一冊の本」2006年3月号より)

思わず、長々と書き写してしまったけど、グールドのディスクでは大胆に配置の組み替えがなされていて第9番がラストにきている、というのは初めて知った。グールドのディスクの、ラストのインヴェンションとシンフォニアの感じも鮮やかに頭のなかに鳴らせることができて、ああ、あれかあと窓の外を行き交う傘が小村雪岱のあの挿絵のようだと思いながらぼんやりして、なんかいつまでもいい気分だった。


日没後、京橋図書館へゆく。本を返してまた借りて、雨の中を日本橋まで歩く。三越で「月刊日本橋」入手、雨のなか来た甲斐があったわいと、地下で少々買い物をしたあと、地下鉄にのりこむ。

あとはもう寝るだけという時間、ミルクティを飲みながら、ゆるりと「月刊日本橋」を繰る。しつこいようだけど、今おもしろいのは「銀座百点」ではなくて「月刊日本橋」なのだ。そうそう、週末の歌舞伎の予習(のようなもの)をやるとするかなと、いかにも早退してしまいそうなのでそれを事前に防止すべく、明治文学全集の河竹黙阿弥集を取り出し、筆屋幸兵衛の脚本をよむことにする。上演のない幕を読めるのが嬉しい。黙阿弥は初演の配役を見ながら読むのがいつも実にたのしい。図書館で借りた国立劇場の上演資料集を参照して本を読み、あっ、源さん! とさっそくはしゃぐ。