三國一朗の『肩書きのない名刺2』を読む

金曜日の朝はとっておきのコーヒーをと、かねてからの計画通りに、三國一朗の「イングリッシュ・アワー」跡地のビルヂングのなかの喫茶店で『肩書きのない名刺』を繰った。と言っても、1冊目の中公文庫版の精読は終わってしまって、今朝から続篇の『肩書きのない名刺2』を読み始めた。あいかわらず、すばらしい。このまま埋もれさせておくのはあまりにももったいない。この二分冊を合本して復刊して、なにか名エッセイのアンソロジーをつくりたいものだと思う。この「名エッセイスト」のアンソロジーにはもちろん戸板康二の巻を入れたい。全10巻とすると、戸板康二、三國一朗のあとの8冊はどんな顔ぶれがいいかなと思案。こういうことになると全然いい知恵が浮かばないのだけれども、わたしが好きな書き手というのは、こんな空想上のアンソロジーにぴったりの顔ぶれなのだ、と嬉しくてたまらなくて、三國一朗の『肩書きのない名刺』はすばらしいなあ! と感激。

『肩書きのない名刺2』をズンズンと読んでいる途中にふと、2年前の河野鷹思展のウィンドウで見た福田勝治の写真集、『銀座』と『京都』のことを思い出してとたんに欲しくなって、ムズムズ。と、いい本を読むと、どんどん本が欲しくなる。けど、物欲はできるかぎり空想だけで留めておきたいものだ。それにしても、三國さんのエッセイはこうして福田勝治の名前が登場してしまうところなどなど、あちこちで琴線に触れるなあ。写真館の息子・三國一朗、ということを思って、そうそう「写真館の息子」の系譜というのがあるのかもと思う。って、小沢昭一以外、わたしには他に思い浮かばないのだけど、でも独特のモダンさがあるような気がする。

夕方はどこぞやへ出かけましょうといろいろと思案していたのだけれども、日が暮れるとすっかりそんな気がなくなり、榮太樓の梅ぼ志飴をひとつ口に放って、無気力にトボトボと家路を歩く。その途中、神保町を通りかかった。本屋さんはもう閉まっている時間。疲れたのでコーヒーを飲むことにして、ひさしぶりの喫茶店に足を踏み入れた。このお店は2年ぶりだけどあいかわらずとぎすまされた空間でご主人もお元気そうでなによりであった。『肩書きのない名刺2』をズンズンと読み進める。最後に収録されている書下ろしの「久板栄二郎と私」にたどりついて、シンシンと読む。もっと早く読んでいたかったと思わせる逸品。ふと、前から気になっている古山高麗雄の『岸田國士と私』のことを思い出して、今すぐに欲しくなる。と、またもや本を欲しがっている…。『岸田國士と私』は一時期、とあるお店で1000円で売っているのをたまに見かけては迷っていたけど、先日出かけたら売れてしまっていたのだった。痛恨なり。