文人俳句歳時記、東京落語会

新・読前読後(id:kanetaku:20050616)に、永井龍男の俳句のことが書いてあって、ホクホクだった。共感たっぷりかと思うと、そんなにはなじめなかったりもして、でも全体をたどってゆくと、「いいなア……」と雰囲気にひたってよい気分、という永井龍男の俳句は、典型的な「文人俳句」なのだった。註釈に拙サイト(2年以上前の「日日雑記」と称するファイル)を紹介してくださってありがとうございます、id:kanetaku さん! と、本人も半ば忘れかけていたけれど、わたしが永井龍男の句文集(『文壇句会今昔』)と出会ったのは、戸板康二の『句会で会った人』という本がきっかけだった。戸板康二の文章を読んでいると、とにかくもいろいろとつながって、その芋づるのたのしみが戸板康二を読むたのしみであるのだけれども、『句会で会った人』はとりわけ「芋づる」度の大きい本で、初めて手にとったときは散財続き、その後もたまに読み返すと、そのたびに「おっ」の連続で、実に油断ならぬ。つい先日も、ほんの気散じに『句会で会った人』をペラペラと読み返していたら、またもやいてもたってもいられず、1冊注文してしまった。

  • 石塚友二編『文人俳句歳時記』(生活文化社、昭和44年)

と、『文人俳句歳時記』が届いたまなしというタイミングで、永井龍男の俳句について綴った新・読前読後(id:kanetaku:20050616)を目の当たりにしたといういうわけで、ひときわ嬉しかったのだった。それから、ここ半年ほど、石塚友二に興味津々で(きっかけは『保昌正夫一巻本選集』ISBN:4309906206 所収の「横光利一をめぐる人びと」)、その余波でそこはかとなく石田波郷のことも気になっていたけれども特に追求することなく現在に至っていた。新・読前読後(id:kanetaku:20050601)の「石田波郷ふたたび」に「おっ」となっていたのも記憶に新しかった。

そんなこんなの、石塚友二の編集した『文人俳句歳時記』は、いざ届いてみると、魅惑的なあまりに魅惑的な、手にとってホクホクの嬉しい本だった。まさしく、金子さんに捧げたいような1冊、捧げられても困ると思うけれど、とにかく素敵なのですよーとちょっと興奮だった。

『文人俳句歳時記』というタイトルからしてうっとりだけど、まずは造本にうっとり。三月書房の小型本を彷彿とさせる、小ぶりの函入り。手にとっただけで嬉しい。ページを繰ると、もっと嬉しい。

石塚友二によるはしがきは、

《明治、大正、昭和、三代にわたる文人の句を出来るだけ広範囲に探り、これを一冊の本にまとめて鳥瞰し、それぞれの時代に、それぞれの諷体をもって、余技に遊んだ文人達の姿を偲んで見たいというのが、この本の編まれる、そもそもの動機であった。》

という書き出しとなっている。そうか、戸板康二の『句会で会った人』の「芋づる」というのは、「文人俳句」というものに惹かれていった道筋ということであり、文人俳句の魅力というのは「余技」としての俳句・句会ならではの魅力なのだ、ということにあらためて気づかされた。「余技」としての俳句ならではの魅力というのが通底しているのが、戸板康二の『句会で会った人』なのだった。そもそも、わたしは俳句そのものには今のところはあまりなじみがなくて、久保田万太郎の俳句だけに夢中といってもいいくらい、そのほかは久保田万太郎を宗匠として、万太郎周辺にいた人々の俳句を「いいな、いいな」と思っている程度かも。

この本の巻末には、村山古郷による「文人俳句の展望」と題した一文があり、ますます「文人俳句」に興味津々。石塚友二の編集した『文人俳句歳時記』は、明治(尾崎紅葉、幸田露伴、夏目漱石、森鴎外)、大正(芥川龍之介、室生犀星、内田百間)、昭和(横光利一)といった文学者がいるかと思うと、坪内逍遥、岡本綺堂、川尻清潭などの演劇人、里見とん、加能作次郎など日頃のごひいき、詩人、歌人、大衆文学などなど、いちいち挙げていくと収拾がつかなくなるような、明治大正昭和の日本の近代文化を彩る顔ぶれがたまらない。嬉しいのが、いとう句会メンバー(徳川夢声、秦豊吉、渋沢秀雄、内田誠、堀内敬三等)をきちんとカヴァーしていること。もちろん、戸板康二や安藤鶴夫の登場。人名索引を参照すると、えっ、こんな人まで! といつまでも嬉しい。(龍岡晋の名前がないのは残念なのだけど。)

あくまで歳時記であるので、季題別に並んでいるので、どこから読んでもたのしい。今の季節だと、

    • 梅雨:「蓮の葉のひたすら青き梅雨かな」久保田万太郎、「ピアノの音部屋にこもりて梅雨いく日」森田たま
    • 短夜:「短夜のはかなくあけし夢見かな」網野菊、「家に住む犬の寝息や明けやすき」戸板康二
    • 半夏至(今年は7月2日):「半夏至白きは蝶とあじさゐと」徳川夢声

といったところを眺めることになる。半夏至という響き、いいなあと思う。

戸板康二の『句会で会った人』をひもとくと、宝物のような本に遭遇することになるのだった。


落語メモ

  • 第522回公演 東京落語会 / イイノホール
    • 古今亭菊之丞『金明竹』
    • 三遊亭金時『抜け雀』
    • 三遊亭栄馬『王子の狐』
    • 五街道雲助『大山詣り』
    • (仲入り)
    • 春風亭勢朝『大師の杵』
    • 三遊亭遊三『酢豆腐』

『文人俳句歳時記』にホクホクしていたところで、出かけたのは、久保田万太郎ゆかりの東京落語会。雲助さんの『大山詣り』が聴きたいという一念で、かなり無理やりに出かけたのだけれども、その甲斐はあり過ぎるほどあって、雲助さんの『大山詣り』は実にすばらしかった。先月末の鈴本での小三治独演会で『大山詣り』を聴いたときはどうもうまく消化しきれなくて、モンモンとなっていた。志ん朝ディスクで何度も聴いて、『大山詣り』強化月間と化していたので、そんなタイミングで雲助さんを聴けることになって、嬉しかった。雲助さんの『大山詣り』は一言で言うと、とてもカラッとしていて、気持ちがいい。ストーリーだけ見てみると、ヤな話ですらあるのに、どうしてこんなに気持ちがよいのだろうと全身で発散した感じ。雲助さんを聴くといつも思うことだけど、そうかこれが「江戸ッ子」の世界というものなのだということがよくわかって、「江戸ッ子」の真空パックとしての落語、というようなものがまばゆいばかり。そして、落語というのはフィクションなのだという、作り物としての落語の工芸的な精緻さ、というものがよくわかって目から鱗だった。と、なにやら意味不明だなあ、この感覚はうまく言葉にはできないのだけれども、とにかくも雲助さんの落語を、古典的演目で聴いたことのないのをもっと聴きたいと思って、未来のおたのしみがモクモクで嬉しい梅雨の夜だった。