「吉村公三郎 女性映画革命」で見た映画

  • 吉村公三郎『四十八歳の抵抗』(1956年・大映東京)*1 / 三百人劇場《吉村公三郎 女性映画革命》 *2

昔の日本映画を見る大きなたのしみに、原作の小説を読む、というのがある。昔の日本映画を見るようになってからそんなにたっていないころ、渋谷実の『自由学校』を見て(佐分利信、最高!)、そのほんわかしたユーモアというか居心地のよさというか脱力感というかが、妙に心に残った。ちょっとかわいた感じが程よい後味だった。それからだいぶあと、古本屋の均一棚で獅子文六の原作を見つけた。安売りの裸本で小穴隆一の装幀がそこはかとなくいい感じだし、中の宮田重雄の挿絵もキュート! だったこともあって、ほんの気まぐれで購入した。それが、獅子文六を知った最初だった。実は何年かして『自由学校』を再見したときはあんまり面白くなかったのだけれども、原作の方は今でも大好き。獅子文六映画は原作の方はいつだって大好きだ。

というように映画をきっかけに小説を知るのもたのしいし、先に原作を読んでいかに映画化されているかを見とおすのもたのしい。なんて、映画と読書が連動するのでお得感たっぷりと、いつものセコイ性根が発揮されているだけなのだけど。しかし、先に読んだ原作がつまらないと映画を見に行く気がなくなるということがたまにあるので(例:伊藤整『感傷夫人』)、気をつけたいところではある。

そんなこんなで、今回の吉村公三郎特集では、田宮虎彦の『足摺岬』がとてもたのしみだったのだけれども、行き損ねて無念だった。で、くじけることなく、次なるターゲットは『四十八歳の抵抗』by 山村聰だーと、張り切って図書館で石川達三の『四十八歳の抵抗』を借りてきた。石川達三の小説を読むのが初めてなら、石川達三の映画化を見るのもたぶん今回が初めて。

と、ほんの実験気分で『四十八歳の抵抗』を読んだのだったが、うーむ、これが意外にも、しみじみ面白かった。『四十八歳の抵抗』というと、タイトルばかりが有名過ぎて、読む前は単なる情痴小説なんだろうなあというくらいの軽い気持ちだったのが、どうしてどうして、小説としてとても面白くてびっくり。ひと昔前の情痴小説、ひと昔前のベストセラーという先入観だけで今ではほとんど読まれておらず、「四十八歳の抵抗」という言葉だけが残っているのだとしたら、もったいないことだと思う。わたしも映画がなかったら一生読むことはなかった気がするので、今回の吉村公三郎特集には大感謝。獅子文六も一時はほとんど忘れられていた風俗小説の書き手だったというわけで、映画を機に昭和の通俗小説を発掘という展開が獅子文六とおなじで、ちょっとワクワクしている。獅子文六の『自由学校』とおなじく『四十八歳の抵抗』も新聞小説なのだけど、十返肇が石川達三の新聞小説を愛読している、というふうに書いているのを見てとても嬉しかった。十返がそう言ってくれていることだしと、ほかの石川達三の新聞小説もぜひとも読んでみようと思っている。

『四十八歳の抵抗』は新聞小説ということもあって、ストーリー展開に起伏があって読む者を飽きさせない。四十八歳の男の内面を通して語られるいくつかの事件。しかし、全体を見とおすと、ストーリーの起伏というのは波乱万丈という種類のものではなく、いくつか事件は起こるけれども、起こった事件の収束の仕方が実に巧妙で、「そして、日々は続く」といったふうに収斂していく感じがとてもよかった。『四十八歳の抵抗』が面白いのは、なんといっても四十八歳の語り口。ぼやき具合が結構ユーモラスでもあって、「勝手なことを言ってるよ、この人は」とツッコミどころ多々ありなのがまたたのしい。と、男の内面がいちいち論理的に組みたてられているのがおもしろかった。チマチマとぼやきつつ「抵抗」を試みる男、その「抵抗」は敢行されるのかというとそうでもなく、ネタばれになってしまうけれども、男はいろいろ思いはするし行動もするけれども、結局はあいかわらずの日常が続くことになる。しかし、一方では、娘の結婚や部下の退職といった確実な変化もあるわけで、小説全体を見とおすと、起こったことと起こらなかったことが織り成す日々の移ろい描写に、全体と細部ともにしみじみ感じ入るものがあった。心の中ではいろいろと葛藤があったり自棄になったりはするけれども、たいていは踏み外すことなくそのままの日々が続くものだ。でも、相変わらずの日々が続いて平凡な毎日を送っているようでいても、確実になにかが変わっているのが人生というものなのだ。…ということが小説全体に通底しているのだった。そんなことを感じつつも、突っ込みどころ満載の四十八歳の語り口にヒクヒク、とにかくも『四十八歳の抵抗』はなかなかのものだった。

さて、石川達三の『四十八歳の抵抗』はずいぶん面白かったのだけれども、これが映画になったとしたらどうなるかというと、うーむ、「山村聰鑑賞映画」としてはおもしろかったけれども、映画的にはやはりちょっと無理があった。小説が面白かったのは事件そのものではなくて、男の内面の語り口だった。映像化するとどうしても事件とそれに伴う山村聰の行動の描写が中心になる。そもそも『四十八歳の抵抗』における男の行動はあまりにも馬鹿馬鹿しいのであった。そのひとつひとつの行動を律儀に再現する山村聰がいじらしい。立派な外見と、行動のチャチさとのギャップが醸し出す哀愁。そんなこんなの「山村聰鑑賞映画」であった。しかし、19歳のなぞめいた少女「ユカちゃん」にメロメロになるところが妙に堂に入っていて、臨場感たっぷり。それは山村聰の演技力というよりは、「地」が出た結果のような気がする(偏見だけど)。

それから、原作では『ファウスト』がモティーフになっていて、本屋さんでふと『ファウスト』を手にするところでストーリーが始まる。『ファウスト』を手にしたとたんにメフィストフェレス的な人物が男の傍らに登場という、リアルな描写のなかに幻想小説ふうの味わいが添えられているというのが『四十八歳の抵抗』の特色なのだけれど、その部分を忠実に映像化すると、単なるギャグになってしまうのであった。そのメフィストフェレスを船越英二が演じることでギャグに拍車がかかり、館内大笑い。それから、原作では、娘とその恋人のほの暗い情念が味わい深かったものだが、映画では若尾文子と川口浩という大映おなじみのコンビ。からっとした現代ッ子ふうになっていて、していることも言うことも同じなのに、原作とは違う味わいなのが面白かった。山村聰の妻は杉村春子で、ちょっと個性が強すぎて、もったいなかった。山村聰を翻弄する雪村いずみがちっともかわいくないのが致命的で、思わず怒りすら沸いてしまった。娘の若尾文子は美人過ぎるし、山村聰以外はミスキャストばかりのような感じで、そのことも映画全体のチグハグ感に貢献しているのだったが、まあ、ツッコミどころ満載なのが面白かった気もする。

映画でおもしろかったのは、ラストの収束具合。娘の恋人の姉であるところの部下に理不尽な怒りをぶつけていた山村聰が、彼女に謝り優しい言葉をかけるところがとてもよかった。パーっと物語が収束して、「抵抗」を諦めて現実を受け入れて、山村聰の人生が老年段階に入るという感覚が、オフィスの窓から見える穏やかな空と合わさることでヴィヴィッドとなり、映像ならではの感触だった。映画全体でも白黒映像そのものはとても美しくて、風格たっぷりで堪能だった。

まとめてみると、今回の『四十八歳の抵抗』は、石川達三の小説を意外なほど満喫、という点で大収穫だった。上の画像は後日古書展で200円で拾ってきた『四十八歳の抵抗』。獅子文六の『大番』と同じく、宮本三郎による装幀。ところで、石川達三原作の映画では、『女性対男性』をぜひとも見たい。佐分利信初監督作品で出演もしていて、山村聰が共演とは!

  • 吉村公三郎『暖流』(1939年・松竹大船)*3 / 三百人劇場《吉村公三郎 女性映画革命》 *4

見たい映画を手帳にメモして「十回券」を買った方がよかったかもーとウキウキだった吉村公三郎特集であったが、結局は当日になってみるとほとんど行き損ねてしまった。でも、石川達三を読むことができたのはよかったし、『暖流』をもう一度見られたのもとても嬉しかった。

『暖流』を前に見たのはいつだったか、今はなき黄金町のシネマジャックへはるばる出かけて見て以来。戦前の都会派松竹の典型的味わいが大好きだった。高峰三枝子と佐分利信の共演映画では、小津安二郎の『戸田家の兄妹』が大好きだし、島津保次郎の『婚約三羽烏』といったたわいないのも大好き。戦後の渋谷実の『自由学校』だって、獅子文六と出会ったというだけでなくて、初めて見たときは佐分利信と高峰三枝子の絶妙なコンビネーションに胸を躍らせたものだった。そうそう、清水宏の『按摩と女』を忘れてはいけなかった! それにしても、佐分利信と高峰三枝子の共演映画に、日本映画のなかでもひときわ好きな映画が集中しているということに驚く。まとめて見たいので、ぜひとも「佐分利信特集」もしくは「高峰三枝子特集」のようなものが開催されるといいなと思うけれども、まあ、無理だろう。なので、せめて再見の機会があったら逃さないようにして、なめるように見たいものだと思う。

というわけで、再見の機会がやってきて、やれ嬉しやの『暖流』だった。昔の日本映画でもっとも好きな系譜がモダーン戦前松竹なのだけれども、思い入ればかりが深くて、いざ再見すると「あれ、たいしておもしろくないな…」ということが実はたまにあったりする。同じく三百人劇場で見てメロメロだった島津保次郎の『家族会議』を後年フィルムセンターで再見したときは、主演の佐分利信の煮え切らなさ具合に思わずイライラしてしまったりも(原作の横光利一と同じ感触)。その『家族会議』とおなじように、『暖流』も終わってみると、とどのつまりは「佐分利信、モテまくり!」という映画なのだけれど、『暖流』は二度目の見物でもとっても堪能。『暖流』は何度見ても(と言っても二度目)、高峰三枝子を中心とする女性陣の気高さに心が洗われるものがあって、「女性映画」というキャッチコピーがいかにもぴったりな、そんな映画。窓からニコライ堂の建物が見える喫茶店での対話のシーンの目もくらむような美しさ! 初見のときとおんなじようにツーンと胸が詰まった。

「佐分利信、モテまくり!」の映画なのだけれども、当の佐分利信は実にデリカシーのない男、しかしそんな作為のなさ加減がモテるゆえんなのだろう、ということがよくわかる(なんのこっちゃ)。昭和10年代の佐分利信がわたしは大好きなのだった。

今回の再見で注目だったのが、山内光(=岡田桑三)。でも、写ったのはほんの一瞬で、じっくりと見られなくて残念だった。