昭和16年の京都、文庫本ショッピング

順調に早起きをして、雨が降らないうちにとイソイソと外出。コーヒーを飲みながら、月の輪書林の目録を眺めた。あらためてじっくりと眺めてみると、注文したい本がズンズンと増殖しそう、だけど、ぐっとこらえて、今後の指針にするにとどめておこう、と自らを戒めるのだった。表紙を見るだけでも嬉しいしページを繰ってたのしいし、あちこちで「おっ」の連続だし、これから幾日も手放せそうでホクホク。

「長岡光郎の旧蔵本」の章、昭和16年7月没の奥田盛善詩集のところに、「ばからしいような、懐かしいような青春の一駒である」という洲之内徹の抜き書きがある。《この章は、「田村義也」から連想される本をあつめました。》という最終章の「『田村義也』の本」に欲しい本がたくさん、数頁にわたって続く「林憲一郎日記 ダンボール一箱 戦前 二十万」がとっても面白い。昭和16年、京都帝国大学文学部仏文科仏語講師、25、26歳か? とのことで、前回の目録とおんなじように戸板康二と同世代の人物の日記の抜粋を垣間見ることができるわけだ。

さっそく太宰施門が登場したところで、なんとなく のサイトの山田稔を囲む会(http://www.groupsure.net/event/minoru.html)のことを思い出していると、10月16日のところの桑原武夫(37歳)のラシーヌの論文への論評にニンマリ。10月26日は英文学会の二日目。《東京文理大の福原麟太郎教授のユーモラスで行き届いた閉会の辞があった。》という。9月13日には武智鉄二の『かりの翅』を太宰施門より受け取っているのにも「おっ」だった。《帰って早速「かりの翅」をひもとく。おどろくべき細緻な批評だ。唯、時に余りにも手厳しい寸毫の容赦もないのが疵だ。》とある。10月11日に、丸太町の観世能楽堂で梅若万三郎の『富士太鼓』を見ている。《この名人をゆっくりと心行くまで観られたのは京都なればこそだ。》とあるような、この日記にただよう「京都なればこそ」の昭和16年の日々にひたってしまった。お祝に本を贈呈しようと、神戸の元町で野上豊一郎の『西洋見学』を購うくだりがいいなあと思ったりも。昭和16年9月発行のこの本、去年秋に古書展で300円でひょいと買ったなあと懐かしい。『かりの翅』と同年の刊行ということになる。

どんじりに控えるのは、去年刊行の『田村義也 編集現場115人の回想』(→ 新宿書房:http://www.shinjuku-shobo.co.jp/2003Top2.html)。《田村さんは自らの装丁を、「甲乙丙丁」の「丁」の字なんだ、と言われたことをふと思い出す。》という一節を垣間見て、佐野繁次郎の「装釘」のことをふと思い出しているうちに、朝のコーヒーの時間が終わった。

文庫本ショッピング

新刊文庫でつい散財。まずは昨日の昼休みに買った本。

  • 小林信彦『物情騒然。人生は五十一から 4』文春文庫(ISBN:4167256169
  • 野坂昭如『文壇』文春文庫(ISBN:4167119137
  • 車谷長吉『銭金について』朝日文庫(ISBN:4022643439

小林信彦を買いに行こうとふらりと本屋さんの文春文庫コーナーへ。すると野坂昭如の『文壇』が文庫化されているので大喜び。この本、刊行まなしに借りて読んだのだった。結構最近だと思っていたけどもう3年になる。小林信彦は今回の文庫化で初めて読む。2001年のクロニクル。当時わたしはどうだっただろうと記憶はずいぶんあいまいだなあと、ページを繰ってみると、突然、この年の1月に他界した宗十郎さんのことが書いてあるので、涙滂沱に。志ん朝さんが亡くなった年でもあったのだなあ。

つい先日、車谷長吉の文庫本を立ち読みしていたら坪内祐三の解説が面白かった、というようなことを伺って、わたしも立ち読みしてみようと思った。ということを急に思い出し、新刊文庫コーナーを見渡してみると、すぐに車谷長吉発見。さっそく立ち読みしてみると、うんうん、坪内さんの解説、絶妙だとホクホクだった。目次を眺めてみると、なんとなくいい感じなので、勢いに乗って一緒に買った。帰宅後、読み始めてみたら、鮮やかな既視感が。この本、新刊で刊行当時「なんだか好きそうな気配」と言われ借りて読んでいたのをやっと思い出した。単行本は野坂昭如の『文壇』と同月の刊行であった。

とかなんとか、文庫化にいたる歳月について、いろいろと思った3冊の文庫本ショッピング。

月の輪書林の目録にも登場している『わが青春無頼帖』、先月に文庫化されたばかりなんて、なんというグッドタイミング。今日の帰り道、イソイソと買いに行った。『酒中日記』もついでに買った。

さっそく、柴錬を読み始めてみると、たいそう面白い。柴錬、かなりいいぞと思う。しばし追求したい。こうなったら、眠狂四郎を読もうかとも思う。

『酒中日記』に関しては、新・読前読後(id:kanetaku:20050328)に詳しい。ペラペラとめくってみると、やっぱり面白い。大江健三郎の登場の連鎖に笑った。開高健が星新一と上方落語と江戸落語の相違について語るくだり(開高説は「西の笑いはひらいていてユーモア、東は閉じていてウィット」)、生島治郎のところに「桂文楽をステレオで聞くという奇妙な趣味の持ち主」の阿川弘之から「一八かい?」と電話がかかるくだりとか、落語関係でニンマリつづき。

昭和42年9月、結城昌治の「酒中日記」。

福永武彦氏と画家の金子千恵子さんをお誘いしてイイノ・ホールの精選落語会へ行く。
志ん生、文楽、円生、正蔵、小さんがレギュラーで、毎回交替で若手の噺家が前座をつとめる。今回はさん治の「道具屋」。前半調子がでなかったようだが、もっとも有望な若手で、私が請合っても仕様がないけれども、このまま地道にすすめば大成すること請合いだ。
志ん生は演題を変えて「二階ぞめき」。父親と番頭に意見をされた道楽息子が、二階を吉原の張見世のように直してもらって、廓に通う代わりに自宅の二階を浮かれて歩くというバカバカしい話である。志ん生は高血圧で倒れて以来体が不自由で痛々しいくらいだが、さて、この底ぬけにバカバカしい話をほかの誰が演れるかというと、志ん生を越える者は見当たらないようだ。

なんだか、先月の枝雀追善会の小三治のことを思い出してしまった。思えば、遠く来たものだ。とりあえず、結城昌治の『志ん生一代』を読みたい。のみならず、急に結城昌治が気になってきた。