歌舞伎座と神保町

芝居見物

  • 二月大歌舞伎『番町皿屋敷』『五斗三番叟』『隅田川』『どんつく』/歌舞伎座・昼の部

歌舞伎座行きのたのしみのひとつに、筋書の表紙を眺めたあとで「今月の表紙」なる一文を読み、そのあとでまた表紙を眺める、というのがある。今月の表紙は、三代目歌川豊国による『神楽諷雲井曲鞠』の「役者見立絵」で、四代目芝翫の「どんつく」を描いている、とある。とてもたのしみだった『どんつく』気分がさらに盛り上がって嬉しかった。さらに、「踊りは自由自在、飄逸な所作事の名人だった」という四代目芝翫といえば、戸板康二著『丸本歌舞伎』の「義経腰越状」の項で言及のあった饗庭篁村の劇評(明治28年10月・浅草座)、そのものズバリ『五斗三番叟』のくだりを思い出して、さらにウキウキと嬉しい。

芝翫の五斗兵衛わけもなく面白し。此は並木宗輔が近松の又平を悉皆かぶせて取しにて、気性だけは又平より根強くありたきなれど、此優には其処はなし。只細工の名人の酒好だけなるは是非もなし。併し此優の出て居る間は見物一同春めきたちて嬉しがるは不思議に人愛の徳を具へし人なり。三番叟の踊面白く、評者も浮かれて踊出づべくおぼえたり。(『竹の屋劇評集』より)

そんなわけで、なかなか味な今月の筋書だった。


夜の部の『野崎村』になにやら夢中の今月の歌舞伎座だけれども、昼の部は狂言立てがとても好みで、それぞれにたのしみにしていた。『番町皿屋敷』というといつもだったら「またか」と言ってしまいそうだけれども、青山播磨が梅玉なのでたいへんたのしみだった。梅玉は新歌舞伎を一貫して強化している様子で、そのたびに興味深く見物していた。そんな梅玉の一貫した取り組みに沿うようにしてこちらもフムフムと見物、という感じで、こういうのが好きなのだ。『番町皿屋敷』は團十郎、三津五郎に続いて三度目の見物。初めて見たときから新歌舞伎のなかでは好きな演目で、毎回それなりにたのしんでいたけれども、今回の『番町皿屋敷』は今まで見たなかで一番よかったと思った。いつもその口跡を堪能の梅玉はもちろんのこと、時蔵のお菊をはじめ、まわりを固める役者がそれぞれに味わい深かった。放駒さえもその意気に感じ入っている様子の小石川の伯母の東蔵をなかなか堪能。新歌舞伎だといつもその「セリフ劇」としての要素に注目してしまうのだけれども、何度見ても、第一場の東京描写が面白い。手下たちのセリフの応酬のその修辞とせりふのなかの都市、東京っ子の競演という感じのあくたいが耳に心地よい。「西洋」にも通じていた「近代人」の岡本綺堂の芝居だから劇としての伏線がいろいろと緻密なので、その観察がたのしい。十太夫とお仙といった脇役描写も味わい深いものがある。それぞれの立場でもってそれぞれの「分」をわきまえて生きている日常人は劇の主人公になることはなく平穏な一生を送る。お菊は身分違いの恋愛をしたあとで、よろこんで死んでゆく。そんな対照性が面白かった。大事なお皿を割ってまでこの播磨の心底を疑っていたのかッ、という、「そんなにまで」のあたりが今回初めてしっかりと実感できたのだった。時蔵は「腰元」映えがして、その姿が堂に入っていて、さらに福助ほどは神経過敏ではない無垢さがあって、こういうところが殿様の寵愛を受けた所以なのだろう、と劇としての描写に一貫性があったのがよかった。すぐに壊れてしまいそうな繊細さを秘めつつ他人にも優しい殿様、というような梅玉は様式的なところのそれぞれの身体の形が決まっていて、見ていてすがすがしいものがあった。

と、『番町皿屋敷』はフムフムという感じで見物、たいへん興味深かったし、見ていて爽快でもあった。続く、吉右衛門の『五斗三番叟』はひたすらホクホク、たのしくってしょうがない。去年の顔見世の智恵内のときを思い出した。『菊畑』とおんなじように、『五斗三番叟』も「歌舞伎的な、あまりに歌舞伎的な」という感じで、もとは人形浄瑠璃の演目でありながら歌舞伎にぴったりな演目となっていて、歌舞伎のよろこび全開なのだった。はじめから終わりまで、その「いかにも歌舞伎」というところを満喫。錦戸太郎と伊達次郎の、顔面が白と赤の兄弟の、歌六と歌昇のコンビネーションがたのしく、そこに「捌き役」の泉三郎がいたり、冒頭では「むきみ」隈の亀井六郎が所作ダテ、といったように、これでもかと歌舞伎気分があふれんばかりで、初めて見たかのようにホクホクと見物。そして、下座の囃子とともに五斗兵衛が酒を飲んでいくまでの緩やかな時間がこれまた「いかにも歌舞伎」でひたすらホクホクで、こういう時間に埋没することが歌舞伎のたのしみのひとつなのだなあ、と嬉しいのだった。三番叟のところでも嬉しくてしかたがない。「浮かれて踊出づべくおぼえたり」と竹の屋の言葉がこちらに伝染してしまった、吉右衛門の五斗兵衛見物となった。前に見たのは團十郎で、そのときも面白かったという記憶はあったけど、詳細はほとんど忘れていた。富十郎の五斗兵衛を見逃しているのはとんでもない失態であるけれども、まあしょうがない。うーん、これこそ「いかにも富十郎!」という役ではないか。六代目菊五郎的な役柄を富十郎で、というのが、わたしの歌舞伎見物の最大のたのしみのひとつなのだった。四代目芝翫が「どんつく」となると、三津五郎の五斗兵衛も見てみたいなあという気持ちになってきた。将来のおたのしみとしたい。

続く『隅田川』はスヤスヤと見物、「待ってましたッ」の『どんつく』はウキウキと見物。帰宅後は、部屋の掃除をしながら、『乗合船』の常磐津を聴くとしようと思いながら、スカッと歌舞伎座をあとにした。


購入本

歌舞伎座で機嫌がよくなり、心持ちよくテクテクと神保町まで歩いた。歌舞伎座のあとの神保町、というのは今回が初めてかも。自宅まで歩いてしまえばわけもなく実現なのだ。東京堂の壁に貼ってある各紙書評をチェックし、文房堂でお買い物をすませて、そのあとで、森茉莉街道をゆく(http://blog.livedoor.jp/chiwami403/archives/14527280.html)を読んでぜひともわたしも行かねばッ、と思った「古書モール」へいざ、いざいざと、エレベーターに乗りこんだ.。日曜日も開いていて嬉しい「古書モール」、日曜日の夕方だからかもしれないけれどもえらく閑散としている「古書モール」、閑散としたなかを練り歩くそのスペースは広々、なによりも本の並びがなかなかいい感じ、見ているだけでもたのしい、でも思わず買ってしまいそうになる微妙な価格設定に注意が必要。などなど、なかなかいい! と、思っていた以上に「古書モール」に興奮してしまった。夜は8時まで開いているとのことなので、東京堂のあとの平日の寄り道コースが増えたのも嬉しい。「古書モール」に栄あれ! と、ことのほか気に入ったのだけれども、あんなに閑散としていて大丈夫なのだろうか。

欲しい本が何冊も見つかって、散々迷った挙句に今回のところは2冊。「古書モール」のあとはいつも行く喫茶店でコーヒーを飲んで、ひと休み。買ったばかりの本をさっそくめくって、ずいぶん長居。外に出ると日が暮れていて、今にも雨が降りそうなあんばいだった。また日曜日が終わってしまった。

  • 河盛好蔵『文学空談』(文藝春秋新社、昭和40年)
  • 宇野浩二『遠方の思出』(昭和書房、昭和16年)

去年6月に「地下室の古書展」で買った『回想の本棚』に満喫し、同じ著者のいろいろな雑誌に掲載された「文学の雑談」というようなものを集めた本としては『回想の本棚』は2冊目、第1冊目が『文学空談』だとあった。以来、読む機会が来るのが待ち遠しかった本だった。その『文学空談』がふと数百円で発見し、ひょいと購入することに。函入りの本で装幀者のクレジットはないのだけれども、車谷弘とみてまず間違いはないだろうと思う。函の活字の感じや地の様子が、なんとなく久保田万太郎の『流寓抄』に似ている気がする。「文学界」に連載していたエッセイを1冊にまとめたもので、さっそくペラペラとめくってさっそくとてもいい感じ。

河盛好蔵ならではの持ち味で、日本近代文学とフランス文学を軽やかにさばいてゆくそのセンスが大好きで、こんな感じで本を読みたいものだというお手本のよう。荷風の『断腸亭日乗』についての文章が冒頭。雑誌に連載していたものなので、たまに時事的な事柄が入るのが面白くて、コクトーの死のあたりがよかった。戸板康二はコクトーの死にパリ滞在中に遭遇した、ということを思い出した。コクトオは1889年生まれで、内田百間、室生犀星、久保田万太郎と同年である、という一節がある。ついでに藤沢清造とも同年だ。河盛好蔵の文章に接すると、いつも近代日本文学の古き翻訳者の系譜、というのがとても興味深くて、読書のたのしみがどんどん広がる思い。河盛好蔵がコクトーを知ったのは、ご多分にもれず堀口大学の『月下の一群』が最初だったという。それから、いつも注目なのが、河盛好蔵による獅子文六評。ここには、《『バナナ』は私の考える美食文学、口腹の小説に最も近いが、しかし御馳走の話に終始しているわけではない。》という一節があったしして、去年の夏に映画と合わせて読んだことを懐かしく思い出した。「文学空談」というタイトルが実にきいている、こういう本とこういう著者が大好きだなあと嬉しい買い物だった。そして、こういう本は全集でもなく文庫でもなく、初版の造本で読みたいと思う。

河盛好蔵と宇野浩二というと、去年、小山書店の「新風土記叢書」の『大阪』を買ったことが記憶に新しい。鍋井克之の挿絵が目に愉しく、長谷川りん二郎の装幀に胸を躍らせ、そのセンスに感激していたのだったが、もとをたどると「新風土記叢書」の企画そのものは河盛好蔵のアイディアだったと、あとで買った小山書店の社主の小山久二郎の回想集『ひとつの時代―小山書店私史―』(六興出版、昭和57年)で知ったのだった。この一連の流れにたいへん感激していた(後日、坪内祐三さんが『まぼろしの大阪』でしっかりとこのことに言及していたのを知ったのだけれども)。

そんなこんなで、河盛好蔵と宇野浩二、という「大阪人」コンビが嬉しい買い物となった。『遠方の思出』は多くの宇野浩二本と同様に、鍋井克之による装幀。「新風土記叢書」の『大阪』が挿絵抜きで再録されていたりもして、なおのこと「新風土記叢書」の感激のことを思い出すこととなった。宇野浩二によるポルトレはやっぱり秀逸だなあとその早稲田の人々のくだりがとてもいい。今回買った本、2冊とも「散歩」みたいにして、折に触れ繰りたい本だった。