続々・歌舞伎座の『野崎村』

今週もイソイソと野崎村を目指して歌舞伎座の幕見席へ。ああ、なんか、たのしくてしかたがない。以下、今回は、舞台以外のことばかりを延々と。

芝居見物

  • 二月大歌舞伎『野崎村』/ 歌舞伎座・夜の部一幕見

『野崎村』にまつわるあれこれに、なにかと感激続きなのだった。

まずは、犬丸治さんの「歌舞伎のちから」(http://homepage3.nifty.com/inumaru/)の、2月11日付け「野崎村の藁苞」という一文。鴈治郎の久松が自害せんとするときに軒先の藁に吊るしてある鎌を手に取っている、と覚えてはいたけれども、特に気にとめることなく見過ごしてしまっていた。その見過ごしてしまっていたあの藁は浄瑠璃の本文で読んだくだりの、久作が小助をやりこめるところで重要な小道具として使われているのを踏まえての鴈治郎による周到な型であるとのことで、なるほどなあとしみじみ感じ入ってしまうものがあった。このことを知ることができて本当によかったと思う。この藁苞はもとは久作が「早咲きの梅」とともに油屋へお土産として持って行こうとしていたものだ。「早咲きの梅」は幕開けから縁側に置かれてあり、あとできわめて印象的な小道具として使われるわけだけれども、今回の上演では、さりげなく藁苞も鴈治郎によって、観客にひょいと印象づけられていたのだった(わたしは気づいていなかったわけだけど)。季節感と生活感とを体現すると同時に、それが小道具としてお芝居のダンドリとして使用されるということの一連の、歌舞伎の情景というものが面白いなあ! と、こういう型をする鴈治郎にそれを見る観客、そのつながり、感激をうまく言葉にできないのだけれども、たいへん感激であった。

『野崎村』に関しての感激その2は、大正の「演芸画報」の藤沢清造による「稽古歌舞伎会」。先週の幕見席のあとに京橋図書館で借りた、国立劇場の上演資料集で『野崎村』を扱っている「稽古歌舞伎会」の記事の抜粋を見ることとなった。「演芸画報」の「稽古歌舞伎会」のことを知ったのは、戸板康二著『演芸画報・人物誌』の「藤沢清造」の項がきっかけだった。いたく心に残ったくだりだった。と言いつつも、初めて実際に記事を目にしたのは知ってからずいぶんあとの去年10月、歌舞伎座の『熊谷陣屋』の折に参照した上演資料集でのこと。同時期に手にした杉山其日庵の『浄瑠璃素人講釈』の印象と合わさることで、「稽古」の語源の「古きを稽える(かんがえる)」ということそのものになんとなくジーンとなって、いつまでも余韻にひたっていた。

「演芸画報」の記者として藤沢清造が企画した「稽古歌舞伎会」というのは、藤沢の言葉によると、歌舞伎狂言を「幕開きから、幕切れまでの、演出について、これを劇壇有識者の教示に従って、研究」するというもので、参加している「劇壇有識者」は伊原青々園岡本綺堂岡鬼太郎小山内薫、久保田米斎、松居松葉、岡栄一郎、浜村米蔵、三宅周太郎といった顔ぶれ。第1回が大正7年の『熊谷陣屋』、第2回は翌年『野崎村』を研究しているものの、第1回が談話記事、2回目は藤沢が会員の意見を聞きつつ記事を執筆というふうに、形態が異なる。と、2回で終わってしまった「稽古歌舞伎会」を藤沢が企画したのは、戸板さんによると、私淑していた小山内薫からのヒントと、「早稲田文学」誌上の「近松の研究」や三木竹二の「歌舞伎」の「劇壇会」から想を得たものではないか、とのこと。つまり、「稽古歌舞伎会」は三木竹二から始まった「型」の研究を意識した、きわめて正統的な劇評史の流れに沿った、藤沢清造による試みだったということになる(と思う)。

などと、説明がまわりくどいが、上演資料集の抜粋を見たあとで、まあ、せっかく『野崎村』を見たのだしと、別件でとある図書館に出かけた折に、数カ月に渡って「演芸画報」に掲載されているという「稽古歌舞伎会」の「野崎村の研究」を全部見てみるとしようと「演芸画報」を眺めることにした。「野崎村の研究」は大正8年の4月から9月までの半年間にわたって掲載されているのだったが、いざ見てみると、これが感動せずにいられようかという感じで、『野崎村』をまさしく「幕開きから、幕切れまでの、演出について、これを劇壇有識者の教示に従って、研究」している藤沢清造の記事は、戸板さんの文章にあった藤沢の「全身全霊を打ちこんだ」ということを身を持って実感できるという代物。その量、その密度、ともにすごい。藤沢の熱気にあおられて、思わずわたしもコピー取りに全身全霊を打ち込んで、「野崎村の研究」を自宅に持ち帰る運びとなった。「演芸画報」の「稽古歌舞伎会」における藤沢清造は、なんというか愚直なまでに一生懸命で、芝居に対するその真摯な姿に、とにかくも感激せずにはいられない。

藤沢清造の一般的な印象というと、破滅型文士、貧困、のたれ死に、『根津権現裏』は伏せ字がたくさん、…といったところだと思う。まあ、藤沢清造に関してはわたしはまだ不明な点が多いのだけれども、歌舞伎のおかげで、藤沢の「演芸画報」での側面をひとまず知ることができたのをとても幸福に思う。今月の『野崎村』の思い出とともに末永く心にとめておきたい。

と、鴈治郎の藁苞に思いを馳せたあとで、「稽古歌舞伎会」の『野崎村』の微細にわたった藤沢清造による研究を読みふけったことで、しょうこりのなく今週も『野崎村』を見たいと思った次第。


前置きが異常に長くなってしまったが、3回目の『野崎村』見物もたいへん面白かった。3回目に見ることで、お芝居のダンドリをじっくりと再確認できるというたのしさも随一だったし、「稽古歌舞伎会」の記事で印象に残っていたことを舞台を見つつ反芻するという歓びも格別だった。


「稽古歌舞伎会」で知ったことといえば、嬉しかったのが、舞台が廻って家の裏手の土手になるところで使われている下座が「三十石の合方」だと知ったこと。「くわらんか、くわらんか」という唄声で、落語の『三十石』のことを思い出して大喜びだった。上方では「京へ上るなら夜舟でござれ」という在郷唄を使う、とあった。寝屋川と淀川とでは場所が違うが、大坂で舟というと三十石を思い出さずにはいられない。

と、落語ののことを思い出したところで、待っている駕篭かきと船頭が口論をしているのは「野崎詣りの川と土手との口喧嘩を利かせている」のだと志野葉太郎さんの文章で初めて知ったのだったが、愛用の『増補 落語事典』(青蛙房)で「野崎詣り」を引いてみると、

陽春二月、上方の野崎詣りでは、気軽に悪口のやりとりをするのが恒例だった。舟で寝屋川をのぼる人と、堤を歩いて行く人とが、たがいに悪口を投げ合う。いくらはげしくいい争っても、手は一つも出さず、相手に言い勝ったらその年の運はいいといわれた。

とあって、だからなんだと言われそうだけど、歌舞伎座の『野崎村』と合わせてこのくだりを見ることになったのをとても嬉しく思った。3回目の『野崎村』のあとは今週も京橋図書館へ。予約していた春団治のディスクを借りて、帰宅後は『野崎詣り』を聴いて、むやみに胸が躍ってしょうがなかった。というわけで、『野崎村』に関しての感激その3は、『三十石』と『野崎詣り』といった上方落語への憧れ。


うーん、『野崎村』、あともう1回、見たい……。