歌舞伎座の『野崎村』

ひさびさに朝っぱらから喫茶店でコーヒー、岩波の旧大系『浄瑠璃集』で近松半二の『新版歌祭文』の「野崎村」のところまでを読んだ。お家騒動的になりそうな続きがたのしみたのしみ、歌舞伎座の幕見席はもっとたのしみたのしみ、と、夕方はソソクサと歌舞伎座まで競歩。今月の歌舞伎座の『野崎村』は顔ぶれを見ただけでたまらない、見る前からこんなに興奮したのはひさしぶり、吉右衛門と富十郎の『関の扉』以来だ。って、『関の扉』、結構最近だな…。本当は昨日見に行きたかったのだけれども、今年の歌舞伎におけるわが抱負は「節度と平常心」というなか、初日早々に馳せ参じるのはいかがなものだろうかと自制心を発揮して、2日目に幕見席に出かける作戦にしたのだった。この中途半端な自制心とやらが自分でも謎である。

幕見に並ぶ行列は開場の時点では10人に満たなかったと思う。息も絶え絶えに階段をのぼってみると、幕見席は理想通りの閑散ぶり。来月からの襲名興行にあたっての「嵐の前の静けさ」といった趣だった。でも日が進むにつれて徐々に混んでくることだろう。あと何回見物に行かれるかな。嵐の前の静けさを心ゆくまで堪能したいものだなあと思いつつ、ぼんやりとチラシを眺めていたら、桂枝雀七回忌追善落語会(http://www.shochiku.co.jp/play/kabukiza/0503-2.html)にいきなり大興奮! キャー、いかにもチケットが取れなさそうッ! キャー! と、あんなにたのしみにしていた『野崎村』開演を前に頭のなかは一気に落語一色になってしまった。しばしモンモンとなったあと、おっといけない、態勢をととのえようと、筋書を買い求めてペラペラとめくった。枝雀の七回忌である今年は先代三津五郎の七回忌でもあるのだなあと、仁左衛門の『女殺油地獄』のときの三津五郎さんのことを思い出した。ちなみに今年は戸板康二先生は十三回忌なのだった。と、どうにかこうにか、歌舞伎気分が無事に復活し、『野崎村』を見物することになった。

劇場を出てみると、なんとなく静かな夜空。『野崎村』の余韻にしみじみとひたっていたくなった。思いあまって徒歩で帰宅することに。皇居のお濠端をテクテク歩いていたら、ジョギングをしている人と何回もすれ違った。お濠の向こうの一面の夜空の色具合が小林清親の絵のようだった。

芝居見物

  • 二月大歌舞伎『野崎村』/ 歌舞伎座・夜の部一幕見

事前に筋書を買っておいたおかげで、今回の『野崎村』見物にあたって、気持ちが再び盛りあがってよかった。筋書のインタヴュウを見ただけで胸がいっぱい。「72歳の後家が一番若い」と笑う田之助、お光が芝翫、お染は雀右衛門、久松が鴈治郎で久作は富十郎と、なんとしても見ておかねばと思わずにはいられない顔ぶれ、芝翫が成駒屋ではなくて六代目菊五郎の型をやると言い、富十郎は武智歌舞伎の思い出を語り、雀右衛門は七代目幸四郎に言及、と現在の舞台につらなる歌舞伎の歴史を背負っているという感じの大舞台。大急ぎで浄瑠璃を読んでいた身からすると、富十郎がセリフを補足して全体の構造をわかりやすくしたいと語っているところが嬉しかった。八代目三津五郎の久作がよかった、というくだりが気になった。

と、気持ちが盛り上がったところで幕があいて、お光の芝翫が野菜を持って登場して、にぎやかな竹本に乗っての本日の婚礼を前にしての浮き立つ感じに見ているこちらもウキウキだった。気分はさながら、オペラの『ばらの騎士』の第2幕冒頭の管弦楽といった感じ。三味線の音とともにちょこまかと動き回るお光だけど、ふとお母さんが病臥している障子の方に足をとめたりする。婚礼を急いでいるのはほかでもない、お母さんの命のあるうちにというわけで、今回は登場しないお母さんが実はこの幕全体で大きな存在なのだった。ということを、このあと何度も鮮やかに見ることができたのだけれども、お光の動作でさっそく、老母の存在にグッとなった。身支度のところもかわいいなあと、「眉かくし」のところでにんまり。「ビビビビビー」がお似合いの「娘方」気分を満喫だった。雀右衛門のお染が登場して、「ふん!」とクルッとターンして座って両手を前の方に合わせるところもかわいいッと興奮。芝翫がお光をやっているということがとても嬉しかったのだけれども、雀右衛門のお染の、その風情がこれまたよかった。ろうたけているというのか寂しげというのか、クドキのところで久松に向かっての袖をつかった動きがたいそう美しい。受ける鴈治郎はおさえにまわっているというか、その存在を際出させるようなことはしていないのに、それなのにしっかりと久松の存在も身にしみてきて、実に絶妙なのだった。

近松半二の本文を読んで、久作の描写にしみじみ感じ入ってしまうものがあった。『伊賀越道中双六』に登場する老人の描写もそれぞれすごいものだったけれども、それにしても近松半二の老人描写はなんと見事なことだろう。一生懸命でまっすぐで、なかなかの知恵もので小助の悪だくみなんてなんのその、だけどとても愛嬌があって、洒落っ気たっぷりのおしゃべりな善人。好きにならずにはいられない人物なのだったが、そんな役を富十郎がやっているというのがたいへん嬉しかった。お灸をすえるおかしみたっぷりのところでは涙が出るほど笑った。志野葉太郎著『歌舞伎 型の伝承』(←大重宝の1冊)で事前に入れ知恵をしておいたところでは、お灸のくだりのあと無理やりお光を連れて奥に入るくだりで久作がお染の存在に気づく演出と気づかぬやり方とがあるとのことだけれども、富十郎はしっかりと気づいているというやり方。気づいてあわててお光を連れて行く。このことで久作の一生懸命な性格がよくわかる。本文で味わった久作の人間性が舞台に視覚化されている所以だと思った。

今回の『野崎村』を見ていて思ったのは、浄瑠璃全体の構造を歌舞伎の舞台でしっかりと体感することができたということ。久松がお店のお金をだましとられて困っている、それを久作がたてかえる、後家はきちんとそのことを知っていてお金を返すという流れとか、病臥している母の存在が通底していることとか、富十郎の異見のところではその口跡のよさで家族の状況がよくわかる、などなど。そんな戯曲読みのたのしみと同時に、それぞれの役柄がとてもいいという歌舞伎の喜びをも満喫で、田之助の後家なんてニンに合いすぎで見ていて嬉しくてしょうがなかった。最後の舞台がまわるところは、音楽的歓びに満ち満ちていて、舞台効果もバッチリ。その舞台効果のよろこびは幕見席でもよくわかる。嬉しいことに、渡辺保著『歌舞伎 型の魅力』(ISBN:4048838547)に「『野崎村』のお光」の項がある。よく読んで再見したいものだけれども、この「『野崎村』のお光」の冒頭で紹介される梅の木にかかっている凧に注目であった。その白梅の木にもたれかかってお光が身をふるわせるに至る幕切れまでの展開も、描写がとても丁寧だった。障子窓からお光が一度顔を出すところがよかった。

そんなわけで、丁寧な舞台づくり、ということにたいへん心洗われるものがあった。こんな大変な顔ぶれの『野崎村』、めったにあるものではない。季節感がバッチリというのも嬉しい。筋書のインタヴュウの富十郎のところで、「後々のひな型にもなる」「その責任を感じての十年ぶりの久作」というふうなくだりがあるのだけれども、まさしくこの舞台を作り上げる全員の並々ならぬ思い入れのようなものが根底にあるのだと思った。そういうものを見られるという幸福を味わったのだった。興奮してばかりであんまり覚えていないところもあるし、いつもの通りに思い違いもあるに違いないので、ぜひとも幕見席を再訪したいものだと思う。今年初めて見た梅の花は『野崎村』となった。先月も梅の花はあったかな、忘れた。

鴈治郎と富十郎の共演を見た、というのもうれしかったなあ。わたしが鴈治郎と富十郎の共演を見ようとすると、今まで決まって富十郎休演でガーンという展開だったので(今まで、といっても2回だけど)、もしや今回も、とひそかに心配だったけど、そんなこともなくてよかった。皆さんお元気で千秋楽まで勤められることのみを願う。