松屋の古本市と山野楽器

ちょうどの時間にぱちっと目が覚めて、身仕度の時間はアファナシエフのディスクでシューマンの《森の情景》を聴いた。昼休みの本屋はいつもと比べるとだいぶ閑散としていた。『吉田秀和全集』の内容見本を持ち帰り、コーヒーショップでぼんやりと眺めた。日没後は銀座へ向かってテクテク歩いた。松屋の8階で開催の古本まつりに突進。と、ここまではたいそう張り切っていたけれど、だいぶ疲れていたのか、到着してみるとせっかくの古本市なのにあんまり士気があがらない。ぼんやりと棚を練り歩いた。でも、士気があがらないながらも次々と本を見るのはずいぶんたのしく、小村雪岱の『日本橋檜物町』の初版の中身を初めて見たりとか(ため息が出るほど美しい)、浄瑠璃関係のよい論文集を知ったので今度図書館でめくるとしようとか、心に刻んだことが多々あって、全体的に眺めてたのしい古本市だった。あと1回くらいは再訪しようかな。古本市のあとは山野楽器へ出かけて、ひさしぶりにウェストミンスターのディスクを買った。

帰宅してとりあえずラジオのスイッチをつけてみたら、おや、なにやら歌舞伎のことをしゃべっているッ、と耳をそばだてて、ゲストに富十郎が登場していて大喜び。いくつか音源を紹介していて、初めて聴いたところでは『封印切』、忠兵衛が二代目鴈治郎で八右衛門が八代目三津五郎、三津五郎のところで急に心がときめき、そのあとで富十郎が三津五郎にいろいろなことを教わったというようなことをしゃべっているのを耳にして、さらに心がときめいた。雷門助六の九代目團十郎の河内山の声色(だったかな)に興味津々。と、ヨロヨロと覇気がないままに帰宅してみたら、ラジオで思いがけず上機嫌となった。ラジオのあとは買ったばかりのレコードをさっそく聴いた。ハイドンの弦楽四重奏曲《ひばり》、ウィーン・コンツェルトハウス四重奏団。吉田秀和さんがお書きだった通りに、「何と素敵な音楽だろう」としか他にか言いようがない!


購入本

  • 岩波セミナーブックス『西鶴への招待』(岩波書店、1995年)

士気があがらないと言いつつも、手ぶらで帰るのもナンだし、ということでしっかりと本を購入。500円だったのでとりあえず。のちのちになって、買っておいてよかった、と思いそうな本である。同シリーズの『近松への招待』もいつの日か安く発掘したいものだと思う。


聴いている音楽

  • ハイドン:弦楽四重奏曲第64番、66番、67番「ひばり」/ ウィーン・コンツェルトハウス四重奏団(ASIN:B00005GTB8

吉田秀和さんの『私の好きな曲』(新潮文庫)を先日ひさしぶりに読み返してみたら、急にハイドンを強化したくなった。ハイドンの弦楽四重奏は今まであまり親しんでいなかったので、これを機にしばらく取り組んでみようと思っているところ。と、さっそく聴いてみると、いままでこの音楽を知らなかったのはとんだ欠落だったなあと、好きな音楽に出会うたびにいつも思うことをしみじみと思って、今の自分にもっとも必要な音楽はこの音楽だ、というような気がしてくるのだった。

ハイドンをきくたびに思う。何とすてきな音楽だろう、と。
すっきりしていて、むだがない。どこをとってみても生き生きしている。言うことのすべてに、澄明な知性のうらづけが感じられ、しかもちっとも冷たいところがない。うそがない。誇張がない。それでいて、ユーモアがある。ユーモアがあるのは、この音楽が知的で、感情におぼれる危険に陥らずにいるからだが、それと同じくらい、心情のこまやかさがあるからでもある。
ここには、だから、ほほえみと笑いと、その両方がある。
そのかわり、感傷はない。べとついたり、しめっぽい述懐はない。自分の悲しみに自分が溺れていったり、その告白に深入りして、悲しみの穴を一層大きく深くするのを好むということがない。ということは、知性の強さと、感じる心の強さとのバランスがよくとれているので、理性を裏切らないことと、心に感じたものを偽らないということとがひとつであって、二つにならないからにほかならないだろう。
こういう人を好きにならずにいられようか?
(吉田秀和『私の好きな曲』より)