歌舞伎座昼の部日記

たのしいたのしい歌舞伎座の昼の部なので張り切って早起きしてイソイソと外出。開館間際の京橋図書館へ行き、各紙書評をざっとチェックしたあと、予約していた本を引き取ってタリーズへ移動。観劇前のゆったりした喫茶はいつも満ち足りた時間で、こうすると芝居見物の集中度も高まる気もしている。

今朝のタリーズで繰ったのは、これまで何度も借り出している、饗庭篁村『竹の屋劇評集』(東京堂、昭和2年)。1年ぶりくらいに借りた。木曜日に荻窪に出かけた折に『常磐津林中』という本をチラリと立ち読みし、團十郎の『関の扉』のことを思った。うっかり返却してしまったので参照できないのだけど『三津五郎舞踊芸話』で「仲蔵ぶり」のことを「丸く踊る」というふうに説明していて、その仲蔵ぶりが團十郎は絶品だった、というようなことを七代目三津五郎が言っていたのだった(たしか)。なので、三木竹二の『観劇偶評』にはなかった、九代目團十郎の『関の扉』の劇評がないかしらと思って、『竹の屋劇評集』を借り出した次第。で、さっそく、團十郎と菊五郎の『関の扉』、明治30年2月歌舞伎座所演の劇評が見つかって大喜びだった。竹の屋主人が「これを見るあいだ人間を離れて歌舞の浄土にうまれ出でたる心地して恍然たるばかりなし」なんて書いているのでさらにニヤニヤだった。

正直正太夫が欠伸の勘定をしていたという團十郎の重の井について竹の屋も「愁歎は退屈とかわり、涙は欠伸のために出るだけなり」と書いていて、またもやニヤニヤ。戸板さんの文章を機に注目するようになった『髪結新三』の勝奴、菊四郎の所演について、三木竹二よりも詳しく書いていたりもして、なにかと面白い。『観劇偶評』を一通り見たあとで『竹の屋劇評集』を繰ると、明治の歌舞伎にひときわ親しみが湧いてきて、ますます『竹の屋劇評集』が欲しくなった。来月に買えるといいな。

春陽堂の黙阿弥全集、今月国立劇場で上演している『裏表柳団画』の脚本が入っている巻も一緒に借りたので、頭のなかはさらに明治の歌舞伎。と、そんなこんなしているうちに、時間が迫ってしまったので、あわてて歌舞伎座へ。現在の歌舞伎に頭を切り替えないといけない。

芝居見物

  • 顔見世大歌舞伎『箙の梅』『葛の葉』『関の扉』『お祭り』/歌舞伎座・昼の部

先月の国立劇場で鴈治郎をたいへん堪能したので、今月の『葛の葉』をとてもたのしみにしていた。『葛の葉』は歌舞伎でも文楽でも未見で今回が初めての見物。先月の『伊賀越道中双六』と同じように、浄瑠璃が全段、岩波の新日本古典文学大系に収録されているので、今日の見物までに読んでおこうと張り切っていた。のだが、怠惰ゆえ、結局事前に読んだのは四段目のみ。けれども、以前図書館で借りて録音しておいた山城少掾の録音『葛の葉』が手元にあったのがラッキーだった。ここ一週間、夜な夜な聴いていて、その一貫で四段目だけは本文を読むということになった。山城少掾の『葛の葉』については渡辺保著『昭和の名人 豊竹山城少掾』に詳しい文章があり、また、先日購入したばかりの武智鉄二の『蜀犬抄』に収録されている文章を渡辺保さんが引いていて、さらに新大系の注釈付きの本文も手元にあるわけで、道具がそろっていた。杉山其日庵のおかげで義太夫気分が盛り上がっていたせいもあって、ひときわじっくりと山城少掾の『葛の葉』に耳を傾けることになり、一つの小宇宙という感じで、毎晩、埋没するようにその世界にひたっていた。

そんなこんなで『葛の葉』、浄瑠璃の世界が歌舞伎になるとどんななのだろうと様子見な感じだったのだけれど、全編たいへん堪能。先月の国立劇場のときと同じように、こういういぶし銀のような舞台がわたしは大好きだーと思った。浄瑠璃にひたっていたあとだったので、歌舞伎になるとどうだろういう歌舞伎の処理に注目で、浄瑠璃の本文でグッときたくだりに歌舞伎でもグッとなった。保名から両親が訪ねてくると聴いてまったく動揺せずに応じるところの鴈治郎はスッと風車を落とすということをする。そのスッと落とすところが浄瑠璃を聴いているときと同じように背筋がひんやりした。奥座敷でメンメンと今までの顛末が語られるところでも、浄瑠璃の文章にしんみりしつつ、役者の身体の動きがあちこちで素晴らしくて、胸にひときわしみるものがあった。身体といえば、本物の葛の葉の、保名に対面したときの振りとか、保名がいかにも歌舞伎の役柄として典型的な和事師というふうになっていて、そのいかにもな動き、翫雀の保名が両親に詫びるところや葛の葉が機を織っているのを見て驚くところといった動きなどもよかった。

奥座敷の子別れのところでとりわけ気持ちが昂揚。浄瑠璃の文句にひたりつつ、鴈治郎の身体を見て、夕べが最後になるなんてのくだりで身体を反らすところにドキドキ、劇空間全体の独特な雰囲気にゾクゾク。障子に和歌を書くところの、竹本が止まって、下座から独吟が流れるところ、書き終わって竹本が再開して急に展開がスピーディーに保名が登場の芝居の運びもよかった。筋書の戸部銀作氏の文章によると、『葛の葉』のあちこちで鴈治郎ならではの処理がなされているようで、なんというか、そういう「歌舞伎をつくる」ということそのものに心が洗われるものがあって、ヒシヒシと胸にしみてきたりもした。今回、乱菊の道行きが最後にあるのは初めての試みとのこと、このことにも大感激で、本文通りというのが嬉しくて絶好のカタルシスとなった。薄の枯れ野で白菊が咲いているという季節感が今にぴったりで、さらに気持ちが盛り上がった。浄瑠璃を読んでいるときもその晩秋の季節感があちこちで情趣たっぷりで、とてもよかったのだった。

とかなんとか、一言で言うと、鴈治郎の『葛の葉』、たいへん堪能。本当にもう、こういういぶし銀のような舞台が大好きだ。でも、山城少掾の浄瑠璃を聴いていなかったらこんなにも堪能できたかどうか。山城少掾のディスクセットを買っちゃおうかしらなどと、ますます義太夫気分が盛り上がった。うーむ、どうしたものか。

『葛の葉』が晩秋の季節感なら、『関の扉』は雪降りのもっと寒いころ。夏に新大系の『江戸歌舞伎集』で『御摂勧進帳』の脚本と注釈をたいへん堪能していたので、『関の扉』が『御摂勧進帳』とおなじように旧暦十一月の顔見世狂言だったということがくっきりと実感できたのが嬉しかった。『関の扉』は文化の日に幕見席で見たときとおなじように、たいへん満喫、一度見ていたおかげで余裕を持ってみることができたのか、さらにゆったりと満喫だった。「歌舞の浄土にうまれ出でたる心地して恍然」だった。関兵衛、小町と宗貞とで互いに腹を探り合いながらの「手踊り」のところのグルーヴ感がたまらなかった。『御摂勧進帳』の脚本を読んでいたとき、おなじく二番目で仲蔵が登場しているときの、何人かで腹のさぐりあいをする場面があった。あのくだりを読んでいるときのうっとりを「手踊り」を見ているときヴィヴィッドに思い出した。『三津五郎舞踊芸話』の小町の衣裳の説明のところで、この衣裳が「天明ぶり」の典型なんだといったことが書いてあった。本で読んだことを自分の感覚で実感できるように、これから少しずついろいろと深めていけたらなと思う。

岡本綺堂の芝居は『佐々木高綱』『鳥辺山心中』『番町皿屋敷』を今まで見ていて、そのたびに劇そのものを味わうというよりは、二代目左團次とその時代に思いを馳せるという感じだった。新歌舞伎の時代、すなわち大正という時代をいろいろと考えさせられるというのが、わたしはいつも結構好きだ。『箙の梅』は芝居そのものはなんだかくだらぬのだけれども、戸板康二の生まれた年、大正四年の帝劇ではこういうのが上演されていた! という、動く立体風俗資料として見るとたいへん興味深い。初演は左團次ではないけれども、七代目宗十郎や森律子が出ていたりして、いかにも「帝劇」で注目だった。梅玉は口跡がよくて品があって、いつもいいなあと思う。去年9月の歌舞伎座で梅玉で見た六助が幕切れで源太よろしく梅の花をさすのを急に思い出して懐かしかった。帰宅後は福原麟太郎の『芝居むかしばなし』の大正4年あたりを読み返した。などと、余波は結構多いのだった。

などなど、昼の部は『葛の葉』『関の扉』とたいへん好みのお芝居が続いて、最後は『お祭り』で気持ちよく締めることができた。今回もたいへんたのしい芝居見物の時間となって、めでたしめでたし。