関の扉

  • 顔見世大歌舞伎『関の扉』/歌舞伎座・昼の部一幕見foujita2004-11-03

歌舞伎を続けて見るようになって初めて迎えたお正月が1999年、その初芝居で『関の扉』を見た。演目そのものが一気に大好きになり、忘れられない記憶となった。忘れられないあまりにその数カ月後、常磐津のディスクまで買ってしまって、結構頻繁に聴いていた。常磐津のディスクを買ってからほどなくして、渡辺保さんの『歌右衛門伝説』を読んで、『関の扉』のくだりがとても印象的で、ますます『関の扉』が好きになった。その歌右衛門が死んだのは桜が咲いて雪が降っている日だった。……と、『関の扉』のことがずっと心にベタリと貼りついていたものの、以来ずっと舞台を見る機会がなかった。それがやっと、今年の顔見世で実現、しかも、全歌舞伎のなかでもっとも好む組み合わせの吉右衛門と富十郎の共演だ。こ、これは、ふだんはいたってクール(でいるつもり)なわたしも興奮せずにはいられない。

というわけで、もうすぐ『関の扉』だ、わーいと、先週は本棚の奥から『名作歌舞伎全集』の舞踊劇の巻を取り出して脚本を見ながら、常磐津(下巻のみ収録)を聴いて、さらに『関の扉』気分が盛り上がっていた。杉山其日庵が浄瑠璃の「風」をメンメンと語るのを見たばかりなので、踊りにも初演の役者の「風」というものがあるのだなあということが実感としてよくわかったような気がして、仲蔵に思いを馳せようといろいろ本を繰って、さらに興奮。と、舞台を見る前から、『関の扉』がらみでひとりで盛り上がっていた。『名作歌舞伎全集』の月報の八代目三津五郎の芸談が面白かったので、本になっていないかしらと昨日、京橋図書館に出かけた折に探してみたら、八代目ではなく七代目の『三津五郎舞踊芸話』という本があった。書庫から出してもらうと、鏑木清方装幀で嬉しくてホクホクと借り出して、その『関の扉』についての微細にわたる文章を読んで、さらに気持ちが盛り上がって、こうしてはいられないと、この週末に見物に出かける予定だったけど待ち切れない、本日急遽幕見席に出かけることにした。

わりと早めに出かけてみたら妙に閑散としていて、ベンチで『大阪学 文学編』(新潮文庫)を読みながら開場を待ち、時間になり息も絶え絶えに階段を登って幕見席に突進してみたら余裕で一列目に座れて、よかったよかった。ちょうどお昼ご飯の幕間だったので時間があいており、開演間際になると結局は立見がでる盛況ぶり。

などなど、前置きが異常に長くなってしまったが、まとめてみると本日の芝居見物は、ここ一週間『関の扉』でひとりで盛り上がっていた気持ちの持って行き場がめでたく実際の舞台に集約した! という、実に見事な舞台だった。わたしの求める歌舞伎はこれだ! と嬉しかった。などと、しつこく「!」を連発したくなるくらい、たいへん満喫。期待通りに吉右衛門が関兵衛にバッチリとハマっていて、始まってさっそく、その立派な姿と愛嬌ある口跡にワクワクで、「当て振り」のところとか、よかったなあ…。あまり詳細は思い出せないくらい見とれっぱなしだった。そして! 富十郎の宗貞もバッチリで、なんて厚みのあることだろうと、吉右衛門と富十郎の共演のよろこびに心ゆくまでひたることができた。この二人だけでも大喜びなのだけど、上巻の魁春と下巻の福助も素敵だった。魁春の小町はそのかわいらしさもよかったけれど、全体に漂う気品がとてもよかった。三津五郎の芸談に《赤姫でありながら、ろうたけたところがあり、また、色気があって、悟った人の淋しみもなければならず……》というくだりがあるのだけれど、まさしくそんな小町だったと思う。墨染の福助は美しく寂しく妖しくて、雰囲気たっぷり。『関の扉』を初めて見たときにヒシヒシと胸にしみた劇全体の雰囲気を思う存分堪能した一幕だった。

もともとこの週末に昼の部の見物に行く予定でいるので、もう一度確実に見られるなんて、夢のようだ。今度はもうちょっと細かいところにも目を向けたいけれど、また雰囲気にひたって終わってしまいそう。とにかくも週末まで健康に気をつけねば。