教文館のカフェ、歌舞伎座夜の部

昨日から今日にかけて秋の行楽へ出かける予定が台風に阻まれてしまった。これは日頃の行いが悪いせいに違いないととっくりと反省したのだったが、芝居見物の前の時間がゆったりとしていて、それはそれでよかったかも、とあとで思った。

午後、教文館へ。金曜日に行ったばかりなのに、またまたナルニア国へ。カルヴィーノのイタリア民話集とか徳永康元が翻訳に参加しているハンガリー民話集などなど、夏に岩波文庫で重版された各国の民話集がいいなあとちょっと悩んだり、石井桃子の『山のトムさん』を立ち読みしたりしたあと、気が向いて隣りのカフェ(http://www.kyobunkwan.co.jp/Cafe/cafe.htm)でひとやすみ。丁寧に入れられたコーヒーを飲んでしみじみくつろいだ。おやつにトラピスト修道院特製の焼き菓子をつまんだ。「トラピスト修道院」というところがいかにも教文館っぽくってニンマリだった。凝ったインテリアというわけではないけれど、きちんと丁寧につくられた空間でとても好感を持った。銀座に新たに素敵な場所が登場したのが嬉しい。ずいぶんくつろいで、たいそう長居してしまった。しかし、休日の午後だというのに、ほかにお客がずっといなくて、ちょっと心配な気も。


芝居見物

  • 芸術祭十月大歌舞伎『井伊大老』『実盛物語』『直侍』/ 歌舞伎座・夜の部

筋書の河竹登志夫氏の文章に、黙阿弥劇が昼の部は『都鳥』、夜の部は『直侍』と、「一人の作者生涯の首尾を画す二つの作品が同時に上演」されているというふうに書いてあるのだけれど、そんな昼の部と夜の部の黙阿弥劇の対照が面白く、同じように、昼の部に『熊谷陣屋』、夜の部に『実盛物語』を見ることで、「物語」が劇中のひとつのクライマックスになっている二つの演目のそれぞれの違いのようなものが面白いなあと思った。今月は昼夜両方それぞれにいい具合にたのしむことができて、さらに、昼夜両方を見たことでそのたのしさがさらに増強された気がする。

『直侍』は何度も見ている気でいたけれど、仁左衛門と玉三郎が共演した1999年2月に一度見たっきり。その日は初めて奥村書店に足を踏み入れて初めて戸板康二の本を買って、喫茶店でホクホクと『歌舞伎ダイジェスト』の「河内山と直侍」の項をめくったという記念の日なのだった。というわけで、『雪暮夜入谷畦道』というと、わたしのなかでは戸板康二とともに結びついている思い入れのある演目。『実盛物語』は文楽上演を先に見ていて、歌舞伎は3年前の初芝居で勘九郎が初めて。パーッと明るくてとてもよい実盛だったと今でもよく覚えている。去年の團菊祭の菊五郎が2度目で、今回の仁左衛門が3回目。『源平布引滝』は文楽で見たときに一気に大好きだったけど、『実盛物語』は歌舞伎ならではの特色がキラキラと輝いていて、いつもなんだかとても眩しい。仁左衛門というと、『義賢最期』をぜひとももう1度見たい。

『実盛物語』を見るといつも十五代目羽左衛門のことを思い出す。戸板康二の文章で知って読んだ岸田劉生の『歌舞伎美論』に花道の羽左衛門の実盛と瀬尾が二人並んでいるところを描いて絵があって、この絵のことはまず戸板康二の文章で読んでいて、とても印象に残っていたくだりだった。あと、小山内薫の晩年の劇評に羽左衛門の実盛に関する文章があって、これまた妙に心に残る文章で、実盛の物語のくだりを見るといつも小山内薫の文章が胸をよぎる。というわけで、実盛と瀬尾が花道に出てきて、実盛が袖をピンと張って立っている姿を見て、遠い記憶の彼方から劉生の絵が浮かんできて、それだけで胸が高まるものがあった。実盛は子供が絡むせいか、ところどころの柔らか味が絶妙。その柔らか味が仁左衛門によく似合っていて、「物語」のところではただたのしくてしかたがなかった。ひさびさに『実盛物語』を全体を見て、物語で過去が立体化したり、生まれた赤ん坊は後の木曾義仲というふうに未来を見通したりと、過去・現在・未来が渾然一体となった世界が見事だなあと素朴なよろこびにしみじみひたった。「物語」と同じように派手な幕切れの諸々の動きにもひたすらウキウキで、なんだかあっという間に終わってしまったので、もう1度見たいものだと思う。

初めて見た『井伊大老』はじんわりと満喫。ウキウキと面白がっていたわけではないけれど、終始しみじみと劇世界が胸にしみてきて余韻がとても深かった。当初は『実盛物語』と『直侍』だけにしようかしらなどと思ってしまったのだったが、見逃さないで本当によかった。今回の夜の部、『井伊大老』が加わることで、『実盛物語』と『直侍』とで三極の小宇宙という感じで、歌舞伎全体をしみじみと感じることができたような気がする。

「白鸚追善」となっている舞台を見ることで、「追善」公演に接する度にいつも思うこと、過去の俳優とその時代、ひいては戸板さんの見ていた歌舞伎に思いを馳せることができるというよろこびを今回もヒシヒシと感じた。幸四郎が初役とは思えないくらいビシッと役にハマッていた。「可愛い女」の役にその持ち味をいかしきっている雀右衛門が見事だった。雀右衛門の前は歌右衛門の持ち役だったようで、筋書の上演記録を見ると、昭和36年の幸四郎一座の東宝移籍があったりしたあと、またそのコンビが復活したことが見てとれて、白鸚の最後の舞台でも歌右衛門との共演だ。渡辺保著『歌右衛門伝説』のことを思い出したりもして、「昭和歌舞伎」を思った。段四郎の仙英禅師のくだりもとてもよくて、そこではもちろん八代目團蔵のことを思い出し、いつまでも「昭和歌舞伎」を思った。その「昭和歌舞伎」というか、戦後の歌舞伎界に実は結構疎いので、戸板康二の見ていた歌舞伎のことをもっと知らねばいけないと、『井伊大老』を見て大いに刺激を受けたのだった。芝居そのものも歴史を捉え直しているというような脚本が面白かった。二人が出会いを振り返る雛祭り、今宵も立派なお雛様が飾ってある家の外は桃の花が咲いていて雪が降ってきたというような背景が印象的に盛りこんであって、劇全体が死のムードに満ちていて主人公は過去ばかりを振り返るという陰鬱さのその描写がよかった。幕切れの酒盃のシーンでは短絡的に久保田万太郎の『大寺学校』のことを思い出し、そんな滅亡の系譜みたいなものがあった。

まとめてみると、それぞれの演目がそれぞれ三極の小宇宙という感じで、それぞれの世界がそれぞれにとても興味深かった夜の部であった。「歌舞伎」が五臓六腑にしみわたった感じ。そして、わたしの場合、背後にいつも戸板康二がいるのだった。