はてなダイアリーの一冊百選

  • ヨシフ・ブロツキイ/沼野充義訳『私人』群像社(ISBN:4905821754foujita2004-09-06

1987年にノーベル文学賞を受けたヨシフ・ブロツキイ(Joseph Brodsky)による、受賞にあたっての講演を収めた本には『私人』というタイトルがつけられた。文庫本サイズの全62ページの小さな本で、しっかりとハードカバーの洒落たつくりとなっている。まずは手にとっただけで嬉しくなるような素敵な本。中身はブロツキイの講演のテクストが35ページ、そのあとに沼野充義さんによる注釈と解説がついている。つまり、約半分が解説に費やされているという懇切な編集となっていて、『私人』を手にしたときは、自分で買ったというのに、とびっきりの贈り物をもらった感覚だった。

ブロツキーの名前を知ったのは1996年初頭、金関寿夫さんの訳で『ヴェネツィア』(ISBN:4087732398)が刊行されたまなしの頃。ひさしぶりに本棚から『ヴェネツィア』を取り出してめくってみたら、新聞の切り抜きが挟まってあった。1996年1月23日付け朝日新聞夕刊掲載の吉田秀和さんの連載「音楽展望」の切り抜きで、タイトルは「有朋自遠方来」、その下に「"根本" は変わらないものに改めてまた満たされる至福」というふうな見出しがついている。吉田秀和さんはここで『ヴェネツィア』を紹介する際の実例として自身の要約でいくつか文章を引いていて、以下の文章を抜き書きして全体を締めくくっている。

水は時と等価であり、美に分身(影)を提供する。ぼくらも一部は水だから、同じやり方で美に仕える。この町は水をこすって、時の容貌を改良し、未来を美化する。それこそ宇宙の中でのこの町の役割なのだ。ぼくらは動くが町は動かないのだから。涙はその証拠。ぼくらは去り、美はとどまる。ぼくらは未来思考だし、美は永遠の現在。涙はとりのこされてもいいから、動くまいとする。でも、それは規則違反だ。涙は投げ返し(throw back)、未来は過去への賜り物だ。あるいは、より小さなものからより大きいものを引き算した結果かもしれない。人から美を、という具合に。愛についても同じことがいえる。愛だって、また、その人自身よりもっと大きいのだから。

この一節は『ヴェネツィア』の最終ページの文章で、ここだけでもうたまらない感じ。さっそく次の日に買いに行った。さっそく読みふけって、『ヴェネツィア』を構成する短文のひとつひとつが交錯して連関して広がっていく、その重層性に酔いしれるという感じでこの本にひたったのだった。なんだか「文学」というものの根元に触れているような感覚。ブロツキーの散文を味わい尽くすにはわたしはあまりに未熟で非力だけれども、一冊の本に抱かれているという感覚がとても鮮烈だった。これから先、いろいろ本を読んだり、いろいろなものを見たり聞いたり、いろいろなことを経験して、歳月を重ねていくうちに、『ヴェネツィア』を読んで以前は味わい尽くせなかったことが徐々にわかってくるのではないかしら、いや、わかるようになるべく歳月を重ねたいものだと思って、気持ちが清々となった。

と、『ヴェネツィア』を手にして、現在はアメリカで文学活動をしている亡命ロシア人の文学者の名前を心に深く刻んだのだったが、そのすぐあとで当のブロツキーの訃報を見ることとなった。1996年1月28日、ニューヨークの自宅で心臓発作で死亡、享年55歳。わたしの前に颯爽と現れたかと思ったら、駆け抜けるようにして去って行ったブロツキー、訳者の金関寿夫さんが亡くなったのも同じ年だった。

そんな1996年が残り少なくなってきた頃、朝刊の広告で『私人』という名の書物が発売になったことを知った。ブロツキーのノーベル賞受賞時の講演を収めた本だと知って、さっそくその日に買ってさっそくページを繰った。「私人」というタイトルがついた本のなかで「一人の私人であるであることを選択し続けた」という詩人、ブロツキーの語る一語一句がビンビンと心に響いて、『ヴェネツィア』のときとおなじように、「文学」というものの根元に触れているような感覚だった。ビンビンと心に響いたといっても、ブロツキーの言うことがきちんと理解できているのかとなると、実はちょっと自信がない。都合のいいように読んで、勝手によい心持ちになっていただけという気もする。たとえば、以下のような一節。

もしも芸術が何かを教えてくれるとすれば(それはまず第一に、芸術家自身に教えてくれるということですが)、それはまさに、人間存在の私的性格でしょう。芸術はもっとも古い――そしてもっとも本来的な意味で――私的活動の形態であるがゆえに、どう転んでも結局、自分が個別で、独自な、二つとない存在であるという感覚を持つように人間を鼓舞し、人間を社会的性格から個人へ変身させるのです。多くのものは、他人と分かち合うことができます。パンも、寝床も、恋人でさえも。しかし、例えば、ライナー・マリア・リルケの詩を他人と分かち合うことはできません。芸術全般、特に文学、そしてとりわけ詩は人間に一対一で話しかけ、仲介者ぬきで人間と直接の関係を結びます。(p.9)

それから、文学が大衆の言葉で話すべきなのではなく、大衆の方が文学の言葉で話すべきだと語ったあとの一節。

審美的な選択は常に個人的なものであり、審美的な体験は常に私的な体験です。新しい美的現実はどのようなものであれ、それを体験する人間をいっそう私的な個人に変え、このような私的存在のあり方は、時に文学的な(あるいは別の何らかの)趣味の形を取ることがありますが、それ自体として既に、人間の奴隷化を防ぐ保証とまではいかないにしろ、人間を奴隷化から守る一つの手段となります。……個人の美的体験が豊かであればあるほど、趣味はしっかりしたものとなり、道徳的な選択も明確となり、そして個人はより自由になります。もっとも、同時により不幸になるということもあり得ますが。(p.15-16)

ブロツキーは自ら詩をつくるということで「文学」に向かっていて、わたしは読み手として「文学」に接している。方向はまったく逆だし深度もかけ離れ過ぎているけれども、「文学」に触れているということは共通している。そんな「文学」に向かい合ったときの崇高な気持ち、その崇高さの所以をブロツキーの言葉で感じているうちに、今までの見ていた世界がちょっとだけ変わったような感覚だった。そして、どんな人間が詩人と呼ばれるかということを語った最後の一節を目にしたときは「恩寵」という言葉を思い出したりもして、その瞬間がまたたまらなかった。それから、祖国を追われてアメリカに定住し2つの言語で文学、社会と対峙し、いろいろな経験を重ねたあとで、「一私人であることをどんな社会的役割よりもよしとしてきた」と自らを語るに至った詩人の言葉を目の当たりにしたことで、審美という点でも社会との折り合いという点でも、自分の生活のなかにある種の規範を持つようになった。まさしく勝手な思いこみだけれども、倫理という点でもとても印象に残った。

『私人』は沼野充義さんの詳細な注釈と解説が付されていることで、「ブロツキイ入門」としても秀逸な1冊となっている。この本の解説のもとになっている沼野充義著『モスクワ―ペテルブルク縦横記』(ISBN:4000038400)を、『私人』を買った次の日にいそいそと買いに行ったのを覚えている。解説で引用されている、ブロツキイのエッセイ集『一以下』がみすず書房より近刊予定とあるのを見て、胸を躍らせたのも懐かしい。以降、『一以下』はなかなか発売されず、2000年の冬に旅行先のニューヨークの本屋で突然ブロツキーのことを思い出して、"Less Than One" (ISBN:0374520550)を買って、窓の外は雪が降りしきる厳寒の日に、カプチーノを飲みながらさっそくページを繰ったのもよい思い出。以後、たまに思い出したように、ブロツキーの本をめくるというときがあって、たとえば、須賀敦子さんの本を読んだときやナボコフの『ロシア文学講義』に感激したときがブロツキー再読の契機だった。まさしく「有朋自遠方来」、遠くから友人がたずねてくるような頻度で、ここ数年来、ブロツキーおよびブロツキーを思い出させてくれる本に接することがあって、そんな本読みの時間はいつも格別で、まさしく「"根本" は変わらないものに改めてまた満たされる至福」。

1996年発行の『私人』にみすず書房より近刊予定、と記載のあるブロツキイのエッセイ集『レス・ザン・ワン』は、翻訳刊行に向けて今も鋭意進行中とのこと。出来上がったあかつきにはさぞや美しい本になることだろう。今度、ブロツキーに集中的に接するのは "Less Than One" の邦訳が刊行されるときか、いやその前になるか。とにかくも、ブロツキーを知ったのはとても幸福なことだった。その本文を読んで文学、倫理という面でビンビンと心に響いてきたという点でも、ブロツキーおよびブロツキー的読書が日頃の本読みにおいてとりわけ格別の歓びをもたらす契機になったという点でも、『私人』という本はわたしにとって特別な1冊なのである。

バトンの受け渡し

水筒さん(id:suitou:20040821)からバトンを受け取り、「はてなダイアリーの一冊百選」を書くことになりました。いつも楽しみに読んでいる日記を書いている方が、実は自分の日記を見ていてくれたということを知るときはいつもとても嬉しく、明晰な文章がひたすらかっこいい id:suitou さんからお声をかけていただいたのはとても光栄なことでした。

この方の「一冊百選」をぜひとも読みたい! という人にまわせるのもとても嬉しく、まっさきに思いついたのが山羊さん(id:yagian)でした。その達意の文章を数年来たのしみに読み続けています。わたしがウェブサイト作りを始めたのも、こんなふうにして文章を書きたいものだと真似したくなったのがきっかけでした。

では、次は id:yagian さんです。