大根と人参、圓生百席

昼休み界隈を散歩した。青い空が高く澄んでいていい気持ちだった。やっとストーブを出して灯油も用意したというのに、このところあまり寒くない。もうちょっとツーンとなってほしい。

  • 渋谷実『大根と人参』/東京国立近代美術館フィルムセンター*1

前々から観たいと思っていた映画。「小津安二郎記念映画」と冠する『大根と人参』は、小津と野田高梧とで原案となっているものの構想段階で終わってしまって、小津が他界したあと渋谷実の手で脚色、監督されて映画化された。いったいどんな映画に仕上がっているのかと少し気になっていた。大々的に小津記念上映が催されているフィルムセンターで関連上映として『大根と人参』があった。小津の映画は見に行かずこっちの方に来てしまうということになってしまった。やはり、わりかし空いていたような気がする。なんとなく避けていた小津記念上映であったが、展示されていた『彼岸花』の赤いやかんに心が躍った。これを見られたのはよかった。

で、映画はというと、渋谷実の松竹映画を見たときに典型的に味わう脱力感、ハズレだったなーと中盤でひしひしと感じてくるようなそんな映画。しかし、渋谷実の映画では、中盤にたどり着く前、始めの方は結構楽しんでいたりもする。その妙なところに思わず注目してしまったり。今まで渋谷実の映画を見ていつも思ったのは、役者が大変印象的だということ。たとえば、『てんやわんや』『やっさもっさ』『自由学校』といずれも獅子文六の原作映画における淡島千景、淡島千景は『本日休診』でもむちゃくちゃきれいだった。あとなんといっても『現代人』の山田五十鈴が忘れ難い。『現代人』も終盤になってくると「あれ〜」というような展開だけども、山田五十鈴の鮮烈さといったらなかった。と、そんな感じで、『大根と人参』も主役の笠智衆、小津映画では絶対に見せないその演技が『自由学校』のときとまったく同じように見ものだった。それにしても『大根と人参』は無駄にキャストが豪華だった。せっかくの豪華キャストをたのしめず。ちょくちょく登場の加賀まり子の演技にはどうも乗れず。それから森光子の曲者ぶりが最後まで謎のこの映画。

  • 「圓生百席」の『刀屋』

馬生師匠で大変感激した『おせつ徳三郎』を圓生はどう口演しているか、図書館で借りてさっそく聴いた。そして、ひさびさに圓生を堪能。やはり素晴らしきかな、圓生! マクラで心中のことを語る際に豊後節のことに言及したりする、そのあたりから来る独特の圓生ならではの香気がとてもよかった。その香気が噺全体を覆う。徳三郎を諭しているときの主人のかっこいいこと、かっこいいこと。なんとなく小山内薫の『息子』を彷佛とさせる感じ。刀屋であるじに諭されているとき、お嬢さんの家出が付近の騒ぎで発覚して外に飛び出した徳三郎、走っていておせつさんにばったり遭遇、そのおせつ登場の瞬間になぜだかドキドキだった。今まで聴き手にとっては徳三郎やそのおばさんの口からしか伺いしることの出来なかったお嬢さんがパッと登場する、その効果が鮮やかだった。サゲは「お材木」だけども「徳や、おあがり」もにおわせつつ、絶妙に人情噺的に処理されている。圓生の練りぶりが如実に伺える。その練りぶりを堪能して、話芸のおもしろさがしみじみ身にしみて大感激だった。

ちなみに圓生も「世の中すいすいお茶漬けさくさく」だった。大西信行さんが書いていた『古典落語大系』を見てみたら、「世の中粋々お茶漬けさらさら」になっていた。それから、「圓生百席」の毎度のおたのしみははじめと終わりに使われている下座音楽。ウケの方は「有難いぞえ」。芝居でも寄席でもよく使われるのだそうで、ちょいと漂う滑稽感が実に効果的。はじまりの下座は「待つ宵は」、殺しの場面で使われる合方とのこと。と、「圓生百席」は、この噺にはどんな下座が使われているかに注目するのが毎回とてもたのしい。歌舞伎を見るようになって『文七元結』とか『髪結新三』を見た頃から落語に憧れるようになった。そのときの遠い憧れを、「圓生百席」の下座を耳にすると、今でもふつふつと感じる。